第5回定例講演(2018/12/15)

方言について 〜文化という観点から〜

岐阜大学教育学部教授 山田 敏弘 

[本記事は、会報『跡』第4号よりレイアウトを変更して掲載しています] 

1.岐阜方言の言語(学)的特徴

 方言の特徴は、ひとことでは語れない。分析の観点が必要である。たとえば、次のような、一昔前の岐阜方言は、 どのような特徴を持つだろうか。
「おまはん、いつまで寝ちょんさるな。はよ、起きんさぇ。」
「きょうは、仕事あらへんのやで、まーちょっと寝かいといてくれんかなぉ。」
「はよ、起きよて。あとで服買ったるで、ヤマカツいっしょに行こまい。」
「えらいで行きたないわぇ。」
 日常使っていることばの特徴に気づくのは難しい。しかし、この会話の中には、数多くの岐阜方言を形成する特徴が 見られる。それらは、言語学的な分析観点を知ることで浮かび上がってくる。きょうは、岐阜の方言の言語学的特徴を 少しばかりお話しする。
 言語学的観点は、アクセントや連母音の融合などの音韻・音声、共通語と異なる俚言を用いるという語彙、活用のしかた や特徴ある助動詞を用いる文法、そして、どのような応答をするかなどの談話、それぞれの特徴ごとにある。 それぞれに各地の方言は特徴を持ち、殊に岐阜方言に関しては、それぞれ東西の特徴を呈することになる。

2.方言と言語

 まず、方言とは何かを考える。そもそも、方言は、言語として数えられる言葉と、どのような点が異なるのか。
 たとえば、イタリア語とスペイン語は異なる言語と考えられるのが一般的であるが、実際には、非常によく似ている。 『新約聖書』「ヨハネによる福音書」(https://www.biblegateway. com/より) から冒頭部分を見てみる(例-1)。
 細かい説明は省くが、一見しただけでよく似ていることが理解されるであろう。
[イタリア語]
In principio era il Verbo, il Verbo era presso Dio, e il Verbo era Dio.

[スペイン語]
En el principio era el Verbo, y el Verbo era con Dios, y el Verbo era Dios.

【例-1 『新約聖書』「ヨハネによる福音書」から冒頭部分】

 一方の日本語の方言は、この2言語の相違よりも大きな違いを見せる。以下は、沖縄 首里方言の「桃太郎」であるが、 俄に意味は取れないだろう。
 ンカシ ンカシ アルトゥクルンカイ タンメートゥ ンメーガ メンシェービータン。タンメーヤ ヤマンカイ タムン アガネーイガ ンメーヤ カーランカイ チンチュルカー アライガ イチャビタン。
(佐藤亮一監修2002より)
 方言か言語かの違いは、どの程度言語としての違いがあるかではなく、政治的な要因が大きく関与する。 日本語には、ヨーロッパの言語と同様か、それ以上に、豊かな違いを呈する方言が存在し、それらは、「○○語研究」と 同様に研究する価値がある。その中で、岐阜方言も研究する価値のある方言であり言語であることを、まず岐阜に住む 我々が理解しなければならない。

3.岐阜方言の音声的特徴

 ここでは、連母音「アイ」「オイ」「ウイ」の融合とアクセントについて見る。
 上記連母音は、融合して右図に

で示したような音になる。連母音の融合は、明らかに尾張藩からの影響であり、 尾張藩の影響下にあった現在の美濃市には見られても、一歩郡上市に入ると見られなくなる。歴史は、方言の形成に 大きな影響を与える。
 連母音が単母音に融合し長母音化するのは、人間の省力化本能による。「アイ」を例にとれば、開口度の大きい「ア」 から小さい「イ」に移動するよりも、中間の音でまとまったほうが楽である。愛知では[æ:]、岐阜では[ε:]となることが 多い。いずれも、通常の[e]よりも広い音であり、これが当地の音韻的特徴のひとつとなっている。
 また、アクセントに関して、岐阜県は大きく見て、東京式アクセントの地域である。
 「春夏秋冬(ハルナツアキフユ)」で言えば、
 「

●○ ○● ●○ ○●

」  (

は高い拍で

は低い拍)
となる。東京のアクセントと同じである。一方、京都や大阪の京阪式アクセントでは、
 「

○● ●○ ○● ●○


となる。興味深いのは、その中間的なアクセントが、垂井など不破郡に見られることである。この地域では、「春」と 「秋」が東京式で、「夏」と「冬」が京阪式となる。結果、
 「

●○ ●○ ●○ ●○


という中間的なアクセントパターンができあがる。これを垂井式アクセントと呼ぶが、この東京式と京阪式の中間的な アクセントパターンも、関東と関西の中間に位置する岐阜方言の大きな特徴である。
 一方で、岐阜方言がすべて東京式かというと、そうでもない。東京式で区別される「赤い」と「青い」も、岐阜では どちらも「

○●○

」となる。また、「1月」「2月」から「12月」まで、異なるアクセントで発音される月も多い。 「日(が)」や「矢(が)」も、岐阜市周辺では「

)」となる。しかし、東濃方言になると、東京と同じ 「

)」となる。このように、岐阜県は京阪式の特徴を一部にもつ西濃西部から、東京式に近いが違いもある中濃、 そして、より東京式に近い東濃と、さながら段々畑のように変わってゆく。

4.岐阜方言の文法的特徴

 文法的特徴は、否定辞のように万葉集の時代から変わらない特徴もあるが、一般的には西から変化が及んでくる。 岐阜には、京阪と共通の文法的特徴もある反面、すでに近畿地方でなくなった特徴も見られる。
 サ行五段動詞の連用形である「出して」や「(傘を)さして」を「ダイテ」「サイテ」というサ行イ音便という現象は、 鎌倉時代に成立した平家物語などにも見られる形態論的特徴である。この特徴は、その後、京阪地方では廃れてしまったが、 西日本各地と当地岐阜の方言には見られる。また、サ行イ音便は、長野県等の以東の東日本に見られないものであり、 岐阜県は、西日本的特徴を呈する東端となることが多い。
 同様の分布は、否定辞でも見られる。岐阜市辺りで用いられる否定辞の「ヘン」は、語源的な「〜しやせぬ」という ような強意表現であるが、すでに強意の意味は失い単なる否定辞である。これもまた近畿地方の特徴が及んだものであり、 飛騨地方では「ン」のみが用いられ、東濃地方では、「ヘン」よりも語源に近い「セン」が多く聞かれるなど、こちらも、 県内で差異が見られる。さながら、変化過程の縮図である。
 気づかれにくい方言として、着点を表す格助詞がある。古くから「京へ筑紫に坂東さ」と言われるように、京都に近い 岐阜県内では「ヘ(発音としては「エ」)」(あるいは、音の変化した「イ」)が用いられることが多い。 その特徴は、「へ」も「に」も用いられる共通語の影響でわかりにくくなっているが、共通語では言えない「風呂へ入る」 が岐阜では言える(と判断する人が多い)ことにも現れている。
 文法的には、京阪の影響を受けつつ、その古い形を残すのが、岐阜方言の特徴である。

5.岐阜方言の語彙的特徴

 今回、
・エレル
・サブイ(サビ−)
・エライ
・ケナルイ
・ナスビ
・(机を)ツル
・(錠を)カウ
・シャチヤク
・ヒズ
・ホータガイ
の10の方言語句を取り上げて解説した。
 「エレル(入れる)」や「サブイ(寒い)」は、音が変化しただけである。実際、方言の語句の多くは、このような音の 変化だけである。先に見た「うまい」が「ウメァー」となったりする連母音の融合も合わせれば、多くの方言の語句は音変 化の結果である。
 次の「エライ(しんどい)」、「ケナルイ(うらやましい)」、「ナスビ(なす)」は、方言独特の語句、つまり俚言と して特徴的であるが、いずれも古い京阪方言である。「エライ」は、江戸時代の上方方言として記述もあるし、 「ケナルイ」は、『源氏物語』にも見られる「異(け)なり」の末裔である。「ナスビ」も、宮中の女房詞から「なす」と なり現在の共通語となっているが、「一富士二鷹三茄子」にも「ナスビ」が用いられるように「ナスビ」のほうが由緒正し い形である。このように、岐阜方言には平安時代から江戸時代にかけての古い言葉が残る。「ヒズ(元気)」と 「ホータガイ(困惑)」も、「穂出づる」と「方違え」に由来すると考えられる。国語の時間、古典で学んでいる価値ある 言葉が、すでに地元にある。
 単独では共通語と同じであるが、組み合わせとして共通語と異なるのが、「(机を)ツル」と「(錠を)カウ」である。 語源として「吊る」「交う」に由来するが、現代共通語で、目的語として「机」や「錠」を取らない。その意味で方言で ある。
 「シャチヤク(世話を焼く)」は、「シャチを焼く」と考えられがちであるが、実際の語源は「差し掻く」であると 考えられる。古語を残す反面、独自の言葉も発展させることも多い。
 分布から考えると、「エライ」のように、西日本全般に用いられるものもあれば、「シャチヤク」のように岐阜市近辺に しか分布が確認できないものもある。語彙は、伝播と独創によって分布が画される。岐阜は、古い都である京都の影響だけ でなく、独創的に方言を作り出す地である。ちなみに、子供たちが学校で用いている「カド・ケド(漢字ドリル・ 計算ドリル)」も、ほぼ岐阜県だけの方言である。

6.岐阜県民の方言意識〜まとめ

 以上見てきたように、岐阜県方言は、東西方言の狭間でその中間的特徴と独自性を呈する方言である。 であるにもかかわらず、県民の方言意識は低い。
 かつて大垣市で行われた調査で左下図のような結果が得られている(佐藤・米田編1999)。実線が地域外出身者の抱く イメージであり、点線が地域内出身者の抱くイメージである。ここから、岐阜県人は、県外人が抱くよりも、 自らの方言に対し否定的なイメージを抱いていることがわかる。実際、多くの方言的独自性を持っているにも関わらず、 その価値が十分に知られていないのである。このことはまったく残念なことである。
 たしかに、方言は国語教育でその価値を否定されてきた。教育県である岐阜県は熱心に国語教育を行ってきたので あろう。しかし、教育は否定して引き算すべきものではない。英語を公用語とするオーストラリアでもアジアの言語が 学ばれるのは、多様性こそが言語による思考の発展にとって重要だからである。共通語が正しく使えることは必要である が、同時に世代を超えてその土地を守っていくための言葉である方言を否定してはならない。 そのことを正しく伝えるために、方言の価値を正しく伝えていかなければならない。 私もそのために一役買って行ければ嬉しく思う。

    【参考文献】
  1. 佐藤和之・米田正人(1999)『どうなる日本のことば-方言と共通語のゆくえ』大修館書店
  2. 佐藤亮一監修(2002)『お国ことばを知る方言の地図帳―新版 方言の読本』小学館
  3. 山田敏弘(2017)『岐阜県方言辞典』岐阜大学


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2018年度第5回講演より

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