第3回定例講演(2018/8/18)

昭和レトロ那加まち建築さんぽ

西ライフデザインセンター館長(講演時) 川上 光洋 

[本記事は、会報『跡』第4号よりレイアウトを変更して掲載しています] 

1.建築さんぽ

 大正から昭和にかけて形成された那加駅界隈の街並みは、家屋の解体やマンション建設などにより急速に変わりつつあり ます。街並みのなかに昭和レトロな面影を探すことは難しいかもしれません。 しかし、長く使い込まれた街路や建物には時間の落し物があります。 一つひとつ丁寧に時間の落し物を拾い集めて紡いでみると、ちょっとした街の歴史が見えてくるはずです。 時間の拾い物を集めて、物語のある散歩道を楽しみましょう。

2.建築さんぽから読み解く那加まちの歴史風景

 国鉄那加駅が開設された大正9年当時の駅周辺は、畑のなかに区画道路が整備されているだけで、 ほとんど人家はみあたりません。しかし、各務原鉄道が開通する大正14年頃になると、道路整備も進み、 さらには駅前に運送会社が進出しました。鉄道と自動車による運送網が飛躍的に発展し、 那加駅周辺に大量の人や物が流入するようになります。一六市場が開かれ、銀行や劇場、娯楽施設が次々と進出しました。
 また、各務原飛行場は拡大の一途を辿り、昭和初期から昭和10年頃にかけて、滑走路や格納庫、宿舎など大規模な 建設工事を行います。これに同調して航空機の製造開発を担う工場群が次々と建設され、その従業員のための社宅群や 娯楽施設、病院など様々な施設が建設されます。那加の街は未曽有の建設ラッシュに沸き立ちます。 こうした建設現場や工場で働く労働者の流入増加と消費活動に支えられ、那加の街は大きく成長しました。

【昭和13年頃の那加駅界隈】

 那加の街中に点在する神社の灯篭などに刻まれた年号を調べると、いずれも昭和4〜9年となっています。 これは、この頃に駅前中心街から周辺へと住戸が増加し、町内が形成されはじめたことを意味します。 また、境内といっても隣地との境界もあいまいに入り組んだ敷地の神社を多くみかけます。 神社の敷地が十分確保できないほど急速に住戸が増加したのでしょう。
 那加の急激な人口増は、もちろん人口の流入によるものですが、新しく流入してきた労働者や学生などの大半は、 借家に住居を求めざるを得ません。木賃アパートだけでは足りず、2階を学生たちに間貸しする店舗も多かったようです。 旅館を営む住居も多くありました。こうした住居では、近代的な接客空間を充実させる必要があり、格調高い玄関をもつ 独特の住宅様式が発達しました。そして、玄関のある住宅様式は、那加の都市化に伴って増えはじめた、軍人や大学教員、 銀行員、会社経営者など知識労働者・サラリーマンの中流住宅に採用されていきます。
 一方、商店建築をみてみましょう。暮らしを支える生活物資を販売する店舗以外にも、病院や薬局、美容室、カフェ、 ミシン屋、クリーニング、自動車修理など、次々と新しい業種があらわれ、多様化してくると、 次第に人目をひくような自由な外観が増えていきます。洋風建築のように見せかけたモルタル仕上げの看板建築は、 ラス下地工法(大正4年開発)が普及しはじめた昭和初期頃から増え始め、昭和30年頃になるとシンプルなデザインの 看板建築が主流になります。
 また、昭和30年代以降になると、タイル張りの外観が増えてくるのも特徴です。釉薬(ゆうやく)タイルは昭和初期に 多治見の山内氏よって開発され、その後、生産技術が向上し、昭和30年頃から昭和50年代頃にかけてよく使われました。 古い釉薬タイルには色ムラがあり、どことなく甘美な美しさを感じます。
 往時の活気を失い、ひっそりと静まりかえった通りの風景にも、一つひとつの建物をよく見れば、近代住宅の格調高さや 看板建築の自由な外観に、大正時代の先進都市としての品格と清新の気が宿っています。

3.那加まちの建築遺産




1)九二八くにはガーデン …

 市民公園には、かつて岐阜高等農林学校(現岐阜大学)がありました。大学の面影を残す唯一の場所が「九二八ガーデン」です。 様式庭園と日本庭園からなるガーデンは、昭和3年9月28日の秩父宮御成婚記念に学生たちの勤労奉仕で造園されました。

2)楠町社宅街 …

 昭和12年に楠町に完成した川崎航空機工業(現川崎重工)の最初の社宅街です。 その後、雄飛ヶ丘や旭町にも建設され、社員約1200人とその家族が神戸から移転してきました。

3)新境川とJRの鉄橋 …

 昭和3年に起工された新境川開削工事で鉄橋が架けられました。橋桁のプレートからJRの鉄橋が大正14年の製造と分かります。溶接技術の発達する以前のリベット接合に鉄橋の古さを感じます。

4)旧川崎運動場のスタンド …

 川崎運動場は、川崎航空機工業の福利厚生施設として昭和12年に建設されました。那加中学校のグラウンド南側に観覧席の一部が残されています。

5)旧大垣共立銀行(移築) …

 銀行建築が曳家され現役で使用されています。外観は切妻造り二階建ての町屋建築にみえますが、観音扉の玄関を入ると、1階フロア全体を総吹き抜けとする近代的オフィス空間が広がっています。

6)角地に立つ建物 … ❻❼

 街路を碁盤目状に交差させる那加駅前には角地が多い。角地の建物は入母屋造り屋根や透かし彫りの欄干など意匠に凝り、ランドマークになっています。

7)玄関のある近代和風住宅 … ❽❾

 車寄せのような格式高い玄関やドイツ破風に似た庇の玄関をもつ和風住宅が並んで建っています。細部は伝統的な和風の意匠でありながら、中央に玄関を配した近代的な間取りが特徴です。

8)和風旅館 …

 まちの発展にともない流入者が増え昭和15年の那加町には46軒の旅館・下宿がありました。ひっそりと佇む町屋に当時の旅館の賑わいを偲びます。

9)木賃アパート …

 2階建て木造アパートで、1階は4部屋に間取りされ、外階段で2階に上がります。木製の窓枠や扉、手洗い鉢などが懐かしい。かつては、岐阜大学の学生のほか、多くの労働者が下宿を利用していました。

10)一六路地と簡易店舗 …

 大正14年から昭和60年頃まで、一六市は街の賑わいをつくり出してきました。道幅2.4mほどの路地の両側に奥行2.8mほどの店舗スペースが設けられています。ここに仮設的な店舗が連なっていたのでしょう。わずかに残る建物から当時の店構えを知ることができます。トタンを使った簡易な構造で、なかには2階建てのものもあります。2階部分は少しでも店舗スペースを拡張すべく路地に張り出し、路地の狭さを際立たせています。

11)看板建築 … ⓮⓯

 伝統的な木造町屋建築の正面や側面を衝立状に仕上げて、洋風建築に見立てた建物を看板建築と呼びます。銅板やタイル、モルタル等を使った自由で装飾的なデザインが特徴です。昭和10年代に建築された薬局の建物は、アールデコ調にモルタルで仕上げられていて、モダンな精気を醸し出しています。

12)大胆な造形意匠の商店建築 … ⓰⓱

 昭和40年代以降からコンクリート造や鉄骨造の建物が増えてきます。商店建築のデザインは、さらに自由になり、大胆な造形や色彩をもつものがあらわれます。

13)モダンな病院建築 …

 那加駅界隈には、たくさんの病院が開業しています。昭和に建てられた病院建物には、鉄筋コンクリート造、陸屋根、白を基調とする外壁などの特徴がみられます。外壁に白い石板や乳白色の釉薬タイルを張って仕上げた古い病院建築には、どことなく清楚な気高さを感じます。

14)空襲の記憶 …

 昭和20年、那加駅前に十数個の大型爆弾が投下されました。この石仏は、空襲の犠牲者を供養するために祀られました。また、本町の秋葉神社には、「那加町戦災思い出の日」の石柱があります。

15)町内の守り神 …

 いずれも祠を基壇に据えた小さな社です。神明神社、稲荷神社、秋葉神社などがあり、商売繁盛を願う稲荷神社は本町、楽天地町、日之出町にあります。これらの地域が商業の中心地だったことが分かります。


web拍手 by FC2
よろしければ、この拍手ボタンを押して下さい。
(書込みもできます)



2018年度第3回講演より

▲ページ先頭へ
TopPage
▲ページ先頭へ

◂TopPage

inserted by FC2 system