第4回定例講演(2017/10/21)
木曽川がつくった地形と地名
(ふるさと楽会会員)
松尾 裕
1. 吉蘇川と岐蘇川
古くは、木曽川の木曽を吉蘇と書いた。『続日本紀』に和銅6年(713)に吉蘇路が開通したとある。 また、貝原益軒の『岐蘇路記』(1721)や斎藤拙堂の 『2. 河川改修
1)宝暦治水
木曽川の河川改修といえば、宝暦治水(1754−1755)がよく知られている。 当時の揖斐川と木曽川の水位差は凡そ2mあり、十分に分流できないまま進めた工事は難渋を極めた。 この壮絶な闘いに挑んだ薩摩義士については余りにも有名だが、同時にまた、多くの犠牲者を生むことにもなった。 彼らを指揮した家老の平田
*)海津市の平田地区(旧平田町)は平田靱負に因んだ地名
2)デ・レイケと高橋示証
明治に入ると、それまでのような徳川御三家の尾張と、弱小藩からなる美濃との行政上の差が徐々に無くなっていった。 そうした中の明治6年(1873)に、海津市の浄運寺住職の高橋示証は、 詳細な調査を踏まえて木曽三川分流の具体的な治水対策を政府に提出し、その後も精力的に治水運動を展開させ、 明治13年(1880)に全国的な「治水共同社」を結成させるまでに発展させた。 これに対し政府は明治10年、オランダ人技師デ・レイケに改修の調査をさせる決定を下し、 その翌年からデ・レイケの精力的な調査が開始された。 そして明治20年(1887)に、いよいよ木曽川下流改修工事の25年間にわたる本格的な大工事が始められたのだった。3)ケレップ(水制)
デ・レイケは調査の段階で、木の枝を組んで中に石を入れて沈めるという4)犬山頭首工ライン大橋
大正13年(1924)、木曽川に全国初となる大井発電所が完成すると、 電力需要の増大と共にダムの建設ラッシュが始まっていった。 これに伴い木曽川の水位は下がり、農業用水の取水に支障を来すようになった。 今渡に調整池が建設されたが、軍拡に阻まれ調整の機能は果たせなかった。 最終的には、各幹線用水路の整備を含め、昭和42年(1967)の犬山頭首工の完成で決着したのだった。5)笠松円城寺の二重堤
上の地図を見ると、円城寺から笠松競馬場辺りまで堤防が重複しているのが分かる。北側が旧堤防で、現在は県道になっている。 南側が現在の堤防。以前からこの地域(茶色で着色)は、年に幾度となく水害に見舞われていた。 明治政府の木曽川改修工事を機に、北に大きく張り出した本堤(旧堤防)を南へ移築する運動が起きたが、 その実現を目的とした「蘇岸水害予防組合」が設立されたのは昭和10年(1935)だった。 そして昭和16年、組合の単独事業として築堤工事を開始し、10年の歳月を要して完成し、 中程度の洪水から水害を阻止することができた。 しかし、この完成した堤防を「小堤」といっていたように、現在の堤防に比べれば規模も小さく、 大規模な洪水では耐えられず「遊水池」のように湛水し、大きな被害を受けた。 国がこの小堤を本堤として本格的に改修に着手したのが昭和41年(1966)、完成は9年後の昭和50年。 これにより、旧本堤と新本堤の間の耕宅地は積年にわたる水害の脅威から解放された。 そして組合設立から40年の事跡を讃え建立されたのが、下の写真「蘇岸築堤記念碑」である。
この碑が建てられている蘇岸築堤記念公園は、この地域の東端にあって、 現在はサイクリングロードの中継拠点にもなっている。
3. 旧川島村の中洲の地名
江戸後期に描かれた『尾張志』付図には、馬島、古屋敷島、小網島、松倉島、笠田島、 牛子島、渡島、小屋場島等の名前が記されている。 その内、小網、松倉、笠田、渡などは現在も町名として残されている。 木曽川沿いの土手には「松倉伊八島水没遺跡」という碑がたてられている。
松倉伊八島水没遺跡
本ページの背景:「板取川」SourcePhoto:K.Nishimura
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