第3回定例講演(2017/8/19)
戦時の記憶〜鹿子島騒動
1. 鹿子島 村
騒動のあった旧鹿子島は、現在は木曾川の北側から膨らんだような地形だが(写真-2)、
かつては南の愛知県側と陸続きの鹿子島村という集落で、木曾川はその北側を流れていた。
1)木曾川の流路
木曾川の本流が境川から現在のように変わったのは、天正14年(1586)の大洪水によるとされている。 しかし、木曾川の洪水史からすれば、中級規模の洪水であったことから、 その半年前に起こった天正地震が流路変遷に大きく影響していたとも考えられている。
図-1 尾張藩藩撰地誌『尾張志』付図「葉栗郡」の一部
(愛知県立図書館所蔵)

写真-1 終戦直後の鹿子島周辺の空撮
1948年米軍撮影(出典:国土地理院)

写真-2 現在の鹿子島周辺の航空写真(画像:© 2018Google)

図-2 現在の航空写真(写真-2)に70年前の空撮(写真-1)を重ねた図
2)県境
明治の廃藩置県以降、岐阜県と愛知県との県境が不明確のままであったが、明治38年(1905)に 木曾川の流れの中央を県境にすると取り決められた。 そして、岐阜県側に取り残された鹿子島の14町9反3畝23歩(約15万u)の土地は、河川敷として没収と布告された。 これに反対した鹿子島村の住民85世帯は、先祖からの土地だからと交渉を重ね、漸く入会権*1)が認められたという。 その後は入会地として松などが植林され、薪などの資源を得るための土地として管理されてきた。2. 騒動
1)松根油
戦時中、ガソリンの替わりに木炭を燃料とした「木炭バス」(写真-3)が走っていて、馬力がないため、
上り坂では乗客は降りて坂上まで歩いたという。
昭和19年頃には、南方からの石油や、満洲の比較的順調だったオイルシェールからの人造石油の輸送も困難になり、
軍の燃料不足はいよいよ深刻となり、そこで計画されたのが、まさかの「松根油から航空燃料を」というものだった。
その計画は翌年直ぐに実施され*2)、松の伐採が全国に展開され、
この鹿子島の松林も、それによって根こそぎ掘り起こされてしまった。
2)戦後の食料事情
戦時中、小学校のグランドをサツマイモ畑にするほど食料事情は悪かったが、終戦後は更に深刻さを増していく(図-3)。 昭和20年は夏の冷害に加え9月には枕崎台風が鹿児島から列島を縦断。 こうした天災の影響も重なり米の生産量は3年前の半分近くに落ち込んだ。 しかも満洲、朝鮮、台湾等海外からの輸入も絶望的な中、 復員者や引揚者による人口の急激な増加が一層食料難を深刻化させた。 この年に腸チフスが大流行*3)したのも十分に栄養が摂取できていないためだったともいえる。 腸チフスは高熱が続き体力を奪うため、より重篤な患者を生んだ。
図-3 国民1人当たり供給カロリー
出典資料:農林水産省「食料需給表」、
安定本部民生局編「戦前戦後の食料事情」、
総理府統計局「家計調査」
安定本部民生局編「戦前戦後の食料事情」、
総理府統計局「家計調査」
3)鹿子島の開墾
こうした状況の中で前渡や下切の住民は、対岸の村の土地であると知りながら、鹿子島の土地の開墾を始めたのだという。 これに気づいた鹿子島の住民はこれを阻止しようとしたが、川を舟で渡っての見張りは思うようにはいかず、 あれよあれよという間に、麦やサツマイモの畑になっていき、その広さは7万uにまでなったという。 元々は立派な松林であった土地が、軍によって伐採されたが、開墾者の多くは、 この伐採時に駆り出された人たちだったのではないだろうか。4)調停
一方、一向に開墾を止められない鹿子島の住民は、前渡に殴り込みを掛けようと鍬や天秤棒を持って集結。 これを聞きつけた草井村*4)の倉橋村長がその場を治め、前宮村*5)の小野木村長に掛け合うこととなった。 しかし村長同士の話し合いでは決着が付かず、遂には愛知・岐阜の両県の話し合いに発展。 結局、愛知県の丹葉地方事務所所長と岐阜県の伊奈波地方事務所所長との話し合いで、 この鹿子島約15万uの土地を前渡側の住民105名に21万円で売り渡すことで決着。5)組合の結成と解散
そして「前渡中洲開墾組合」という管理組合が結成され、当時の伊奈波地方事務所の青山所長の名前から、 この地を「青山耕地」*6)という地名に変えた。ところが、外的要因も加わり景気も次第に良くなり、 食料事情も改善されるにつれて組合員の多くが畑仕事から離れていき、昭和30年(1955)、終戦10年を期に組合は解散した。 この時建てられた記念塔は今もこの地にある。後日、足立氏に案内していただいた。 新たに造られた堤防を超えた藪の中に、ひっそりと立っていた(写真-5,6,7)。
その後、この辺りには、県のし尿処理施設として各務原浄化センターが建設され、 敷地内には公園やスポーツ施設なども整備されている。
3. 終わりに
西欧、特にドイツの教科書には、悲惨な戦争の歴史についての記載が、今も50ページ以上に及ぶ。 そして多くの事例や写真などによって、戦争の過酷さを生徒たちの心に刻み込もうとする編集者の熱意が伝わってくるという。 一方日本では、そうした具体的な描写は徐々に減り、2000年代以降は、短く簡潔な表現になってきているという。JC総研元理事長の薄井寛氏は、こうした教科書の例を引き合いに、 戦争は過去のもので「もはや戦後ではない」という風潮に警鐘を鳴らす。
そもそも、昭和31年(1956)の経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」という一文は本来、 「戦後の外的要因による経済回復は、その浮揚力をほぼ使い尽くした。 今後の成長は回復ではなく近代化によって支えられるべきだ」という視点から記されたもので、 この一文だけが独り歩きしてしまった。
また、司馬遼太郎の「(他人の痛みを感じることは)本能ではない。 だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない」というメッセージを引き合いに、 これからの未来を背負う中高生が、悲惨な過去の戦争と向き合い、人を思いやる心を育む重要性を述べられていた。
講演の最後に足立氏が述べられた−「本当に、平和の有難さをしみじみと感じます。 どうか、どうかいつまでも、戦争のない世の中が続きますように、もう一度、あのような苦しい食料難が来ないように、 ただ祈るばかりです。」−という語り口が今も心に残っている。
入会権とは、一定の地域の住民が山林原野において、
共同で収益(堆肥、家畜飼料、燃料等に用いる牧草や木の採取)する慣習上の権利(民法263、294)。
その入会権が設定されている地域を入会地という。ただし、実態が一様でないことから、登記はできない。
釜の上から松根を詰め、釜の下から火をつけてむし焼きにする。
松根から出た油は底にたまり、それを竹の樋に導いて、流水で冷やすと、三層となって流れ出す。
一番上の層が上質の松根油で、中層がコールタール、下層が排水となる。
上質の松根油は農会(全国農業経済会)に納め副産物のコールタールはトタン屋根に塗った。
松根油を取った松根の炭は、火持ちもよく重宝に使わせてもらった。
(都幾川村史編さん委員会『都幾川村史通史編』)
海外からの復員,引揚げに伴って我が国に常在しない発疹チフス,痘そう,コレラなどの伝染病が爆発的に流行した。 厚生労働省が現在公開している資料「伝染病及び食中毒の患者数と死亡者数(1876〜1999)」では、 昭和20年のデータのみが抜け落ちている。 この年を除けば、腸チフスは明治12年頃から、毎年、数万人単位発症が続いていて昭和23年以降徐々に減少している。
*4)草井村明治39年(1906)の旧草井村と小鹿村(小杁村と鹿子島村)と村久野村による合併後の草井村。現江南市。
*5)前宮村明治30年(1897)に前渡村と若宮村の合併によって発足した村。その後中屋村、更木村と合併して稲羽町に。
*6)青山耕地浄化センターの西に「青山グランド」という野球場がある。 伝統ある少年野球チーム「岐阜青山ボーイズ」のホームグランドでもあり、かつての「青山耕地」の名からとも聞いている。
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【参考文献】
- 飯田汲事:『天正14年の洪水による木曽川河道の変遷と天正地震の影響について』愛知工業大学研究報告第19号B、1984
- 名古屋気象台監修:『愛知県災害誌』愛知県、1970
- 薄井寛:『戦中戦後の食料難を歴史教科書はどう書いているのか』JC総研レポート/2015VOL34
- 科学技術庁:『昭和55年版科学技術白書』文部科学省、1980
昭和17年、全国森林組合連合会は戦争物資の調達機関として国から要請を受け、全国の小学校にどんぐり拾いを呼びかけた。 (講演時に提供された写真)