第2回定例講演(2017/6/17)

犬山城と成瀬家


本記事は、第2回定例講演会(2017/6/17)における、 (公益財団法人)犬山城白帝文庫理事長、成瀬淳子氏の同題講演から作成したものです。

 1. 犬山城

 徳川家康の重臣でもあった成瀬正成は、尾張徳川家の付家老*1)となり、 元和3年(1617)3万5千石の犬山城主となります。 成瀬淳子氏は、その成瀬家初代正成公から数えて12代目城主正俊氏の長女ということです。 犬山城の創建については、天文6年(1537)、織田信康(織田信長の叔父)によるとされていますが、 その創建年代にも諸説あるため、研究者の方からX線などの最新技術を使って年代を測定したいという依頼があるそうです。 これに対して淳子氏は「少なくとも1584年の小牧長久手の戦いで秀吉の陣にあったことは確かで、 それ以上、歴史のどこに創建年があっても構わないとも思っている。」と述べられていました。
 当初は2階2層*2)でしたが、現在のような階層になったのは1617年から1625年の間といわれています。 これに関して淳子氏は「正成の息子の二代正虎の意向がかなりあるのではないかと思う」と、 そして、その理由として などを挙げておられます。

 2. 修理の歴史

1)明治の大修理

 明治24年(1891)に濃尾地震が発生しまし た。成瀬家9代当主正肥(まさみつ)の時です。 この地震で犬山城の天守と西面北端の付櫓や城門の一部が倒壊しました。

明治24年犬山城天守半壊/(財)岩田洗心館 所蔵

その頃の犬山城は行政の管理下にあり、修復には莫大な費用が掛かります。 版籍奉還以降、同じように全国各地に残された城郭の維持管理に、 政府は頭を痛めていたこともあって、愛知県側から成瀬家へ、修理を条件に譲渡の申し入れがあったのです。 正肥は悩んだ末にその申し入れを受けました。
 実際に掛かった修理費用は約4,500円*5)でしたが、 募金の記載には1,500円までしか残っていなかったそうです。 足りない3,000円については、後に正肥が亡くなった時の香典袋に、 尾張家からの借用証文が入っていたといわれていることから窺い知ることができたといいます。 当時の尾張様は「後の世まで借金は残すものではない。 これからの返済は無用」と言われたそうで、淳子氏も思われたように、正に粋な殿様です。
 明治32年(1899)、この「明治の大修理」を終えて4年後、 正肥公は幕末の波乱に満ちたその生涯を閉じられたのでした。

2)昭和の大修理

 昭和34年(1959)の伊勢湾台風でも、屋根瓦が飛ばされ、漆喰が剥がれるなどの大きな被害を受けました。 この時の当主は、淳子氏の祖父にあたる11代目正勝氏です。 東洋大、東京大、成蹊大などの教授を務めた国文学者で、辛口の批評で知られる文芸評論家でもありました。
 被災した犬山城は4年の歳月をかけて解体修理がなされました。その費用は凡そ6,000万円。 行政からは1割と決まっていたので、個人負担額は、今のお金でざっと1億円にもなったといいます。

3)平成の修理

 明治以降の大修理は、何故か奇数代ごとに行われてきました。 13代目を継がれた淳子氏は、そうしたことを踏まえ、災害に備えた準備をしてきたのだといいます。 そして、祖父の正勝氏もまた修理後8年で亡くなられていることから「お城の修理は正に命懸けなのです。 でも、私は築城500年までは生きなければならないのです」と覚悟のほどを述べられています。 だからこそ「平成の修理」といっても、そこに“大”の字を決して付けてはならないということでした。 今後の備えとしては、耐震補強が最も難しい問題といえます。 その診断についての結果はほぼまとめられたようですが、どこまで木造を維持できるか、 如何に外観を損なわずに補強できるかなどに加え、実際に工事を始めるとなれば、 長期の閉鎖による城下への影響も考えなくてはなりません。 昨年7月の落雷で鯱が被災した時は、閉鎖も僅かな期間で済みましたが、 それでも周辺の町並みへの影響は少なくありませんでした。 また、工事に掛かる費用も多額であるだけに大きな問題でもありますが、 この木曾川河畔の美しい景観を守り、白帝城の文化的、歴史的価値を広く理解していただかなければならない。 そんな思いから全国を飛び回っておられるとのことでした。

 3. 「粋」に生きる

 公益財団法人「犬山城白帝文庫」は、お父上の12代当主正俊氏の寄付により、平成16年(2004)に設立されました。 以降、犬山城は個人所有ではなくなりました。
 現代において、国宝でもあるお城を個人が維持管理していく大変さは、とても想像できませんが、 先々代の修理での多額の出費以降は、より厳しいものがあったものと思われます。 しかし、今、こうして美しい犬山城が残されているのは先々代の大局的な決断があったればこそともいえます。
 若い頃、御父上から「淳子よ、野暮に生きるな、粋に生きろ。」と言われたそうです。 そして、その「粋」というものが少しずつ解るにつれて「粋に生きる」ことの難しさを感じておられるとのことでした。 また、参加者から後継ぎについての質問を受けて、「お城と共に生きるのは、私が最後かもしれない。 それも止むを得ない、元々、成瀬家の当主はお城なのだという考えでいます。」と答えられていましたが、 この「城と共に生きる」という淳子氏の覚悟そのものが正に「粋」なのではないだろうかと思います。

*1)付家老
 元々は家康が身内を大名に取り立てたときに、直臣を家老として付随させたのが始まりだが、 時代と共にお目付け役的意味合いは薄れるものの、藩内では別格の家老として存在し続けた。
*2)2階2層
 「層」は屋根の数、「重」は地階を含めた床の数、「階」地階を含めない床の数

(西ヶ谷恭弘:『復原名城天守』日本城郭史学会、1996)

*3)傾奇者(かぶきもの)
 戦国末期から江戸初期にかけて流行した、異風を好み、派手な身なりをして、 常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。
*4)唐破風(からはふ)
 中央部を凸形に、両端部を凹形の曲線状にした破風(屋根の妻側の造形)
*5)平成27年(2015)と明治23年(1890)との物価の比較
@一人当たりの国民総生産 392万円/26円 ≒150,000倍
A国民一人当たりの年間消費支出 151万円/25円 ≒60,000倍
これらから当時の4,500円は、現在3〜6億円ぐらいだろうか。

ただし、@の平成はGDP(国内)、明治はGNP(海外含む) Aの平成は世帯当たりだったのを、世帯人数2.5人で補正した。  資料は東洋経済新報社:『長期経済統計』1988及び矢野恒太記念会:『日本の100年』


中日新聞岐阜地方版(2017/6/18)



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2017年度第2回講演より

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