第1回定例講演(2017/4/15)

南イタリアの植民都市


本記事は、第1回定例講演会における(岐阜大学教育学部教授)山田敏弘氏の講演 『イタリアの地名と文化』より当編集部で独自に作成したものです。

1. 古代ギリシャの植民都市

 BC 8世紀からBC 6世紀にかけて、急激な人口増加や都市国家間の覇権争いなどで、 人々は新天地を求めて、あるいは交易拠点として地中海沿岸の各地に植民都市を建設。 こうした背景には、ギリシャの母都市の経済圏の拡大という狙いもあったと考えられる。
 当時の植民都市は、母都市から政治的にも独立した運営がなされており、 この後のローマのような征服による領土拡大とは異なる。
 特に南イタリアの、そうして栄えた地域をマグナ・グラエキア(大ギリシャ)と呼び、 今もこの地に残る遺跡や地名などに、ギリシャ文明の痕跡をみることができる。

マグナ・グラエキア(「原典:Future Perfect at Sunrise」より改変)

2. ナポリNapoli

 ローマ、ミラノに次ぐイタリア第三の都市で、地元ナポリ語でナープラ(Napule)、 英語名ならネイプルズ(Naples)。
 クーマエを母都市として植民都市パルテノペの数キロ離れた地に新しく開発された都市 「ネアポリス」(Neapolis)が起源。クーマエはイタリア最初の植民都市で母都市はハルキス。
 現在、日本の鹿児島市とは姉妹都市。

ナポリ市街とヴェスヴィオ火山(写真:©2006Damirux)

【ポンペイPompeiの遺跡】

 ナポリから南東に凡そ25km。ヴェスヴィオ火山はその手前にある。
 一瞬のうちに町をのみ込んだ噴火は79年8月24日の午後1時頃の昼間に発生した。 本格的な発掘調査は18世紀に始まり今も続けられている。まるで時間が止まったかのように、 都市が丸ごと遺跡となっていて、ローマ時代の華やかな生活の様子を見ることができる。 覆いつくした火山灰が、皮肉にも劣化を防ぎ、鮮やかな色彩を見せている。 例えば町から少し離れた「秘儀荘」と呼ばれる建物の地下壁画の背景色は、 その美しさから「ポンペイの赤」*1)といわれている。

ポンペイ遺跡内の通り、飛石状の横断歩道(photo:Alago)

【アマルフィ海岸】

 ポンペイの南のソレント半島南岸が世界一美しい海岸として知られるアマルフィ海岸。 ユネスコの世界遺産にも登録されている。 このアマルフィの地名は、ヘラクレスが愛したニュンペーという精霊の名に由来するという。

アマルフィ海岸の朝(photo:A.Taniuchi)


3. ターラントTaranto

 スパルタを母都市とする植民都市ターレスが起源で、ギリシャ神話の英雄ターレスの名が由来。 現在、そのスパルタとは姉妹都市。
 半島統一を目指すローマ軍は、次々と植民都市を征服し、その最後がこのターラントだった。

ターラント旧市街地3D航空写真(画像©2018Google)

【ピュロスの勝利】

 ターレスの支援要請に応えたのが、ギリシャ西岸のイピロスのピュロス王。 マケドニアの傭兵部隊を擁したピュロス軍は強く、二度に亘りローマ軍を撃退した。 しかし増員がままならないピュロス軍は、人的資源が豊富なローマ軍をいくら壊滅させても、 直ぐに新たな軍が編成されるため、それ以上攻め上ることができなかった。 このように実利が得られない勝利から「ピュロスの勝利」が「割に合わない」という意味で言われるようになった。

【アッピア街道】

 その後、再び南下を開始したローマはターラントを服属させ半島を統一。 ローマ時代はタレントゥム(Tarentum)と呼び、ローマからの軍用道路「アッピア街道」は、 このタレントゥム、更には東岸のブリンディジまで延長された。 そして、その後、このブリンディジは、軍港として東方へ向かうローマ軍の拠点となった。

アッピア街道第1マイルストーン

【イタリア海軍基地】

 北側にはマーレ・ピッコロと呼ばれる内海を控えていて、その奥にはイタリアの海軍基地がある。 19世紀に戦艦を通すため運河が掘られ、かつてのターレスは島となった。 運河の入口には、15世紀に建てられたアラゴン城がそびえる。現在は海軍の施設となっている。 その東側は、かつてのネクロポリス(巨大な墓地)であったところで、新市街地として開発されてきた。 島側の旧市街地は発展が遅れていたが、最近になって観光名所として整備されつつある。

アラゴン城(写真©2004Haragayato)

4. シラクサSiracusa

 シチリア島東南端に位置する都市で、古代ギリシャのコリントを母都市とした 植民都市シュラクサイ(Syrakousai)が起源。唯一、コリントとが姉妹都市。

【ハンニバル戦争】

 半島を統一したローマが、地中海の覇権をかけてカルタゴと一世紀以上に渡って戦ったポエニ戦争、 その中でカルタゴの将軍ハンニバルが、北からローマに攻め入り連戦連勝でローマを震え上がらせた 第二次ポエム戦争をハンニバル戦争ともいった*2)。 特に5万人以上のローマ軍を壊滅させた「カンナエの戦い」(BC216)は、後の世界戦にも参考にされてきた。

BC3世紀頃のローマとカルタゴの勢力図
(ベースの地図は国土地理院淡色地図より)

【アルキメデスの発明】

 この戦いに呼応して立ち上がったギリシャ植民都市は多くはなかったが、 その中の一つが要塞都市シュラクサイ。ローマの大軍に町を包囲されながら、 3年余りを持ちこたえられたのは、この都市出身のアルキメデスによる様々な発明ともいわれている。
 防衛のための武器として投石器や「アルキメデスの鉤爪」などが知られており、 太陽光を敵船に集光させて炎上させたという「アルキメデスの熱光線」については、幾度か検証されてはきたが、 「可能性は否定できない」に留まっている。

アルキメデスの熱光線

また、船内の水を排出させるために考案した装置の仕組みは「アルキメディアン・スクリュー」として 様々な分野に今も生かされている。

*1)ポンペイの赤
 2011年、イタリア学術会議の発表によれば、大半の赤は噴火によるガスと熱によって変色したもので、 本来は黄土色であったという。
*2)ハンニバルの誤算
カンナエで勝利したハンニバル軍は、そのままローマを攻略するには兵力不足ということもあって 南イタリアへ兵を進めた。これは、ギリシャ人都市にローマからの離反を促す狙いであったが、 ローマはハンニバルとの交戦を避け、周辺都市の鎮圧に力を入れ、持久戦へと戦略を切りかえた。 連戦連勝時のような反ローマの機運を盛り上げる機会を失くしたハンニバル軍は孤立していった。 結局、この戦争に消極的だった本国に戻った後、ローマ軍に敗れることになる。

本ページの背景:アマルフィから少し東のポジターノの街並み


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2017年度第1回講演より

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