Lecture

UpDate/2017/3/14





第6回定例講演
(平成29年2月18日)


美濃路と中山道
(尾西歴史民俗資料館学芸員)宮川 充史

*本ページは、講演時の資料を参考に当編集部にて作成したものです。


1.江戸時代の街道

図-1 江戸時代の道中案内図(国土地理院/『大日本早引細見絵図』1842)

1.駅伝制(伝馬てんま制)

図-2 アッピア街道州立公園(ローマ近郊)
(Photographer: Lora Beebe, 2004/6/8)

 古代より人や物資を馬で運ぶ「駅伝制」と呼ばれる交通制度があった。そして、それは政治・軍事の情報伝達システムとして地方にまで整備されていった。 こうした制度は、紀元前より世界各地でみられる。
 駅伝制の「駅」は、時代と共に「駅家(うまや)」から「宿場」へ、そして、慶長19年(1614)の大坂夏の陣以降、戦がない江戸時代では 軍事的な色合いも薄れ、人や物資が往来する街道へと整備されていった。
(拡大)

図-3 アッピア街道 Via Appia(Roma~Brundisium)

図-4 『伊勢参宮 宮川の渡し』広重の一部
(神宮徴古館所蔵)

また、お伊勢参りやお城見物などの物見遊山が庶民の間にも普及し、それに伴い、宿場が栄えていったのもこの頃からといえる。 この「遊山」という言葉は、禅宗からのもので、山での修行を終えた僧が、修行遍歴の旅に出て美しい景色を眺めながら 平静な心境を得ることから、「気晴らしの旅」の意に転じたのだとされている。

2.美濃路廻りの東海道と中山道

図-5 東海道・中山道・美濃路

2.美濃路の宿場と渡し

1.名古屋宿

図-6 伊藤呉服店(後の松坂屋)/尾張名所図会(愛知県図書館所蔵)

2.清州宿

図-7 清州城跡/尾張名所図会(愛知県図書館所蔵)

図-8 清須花火/尾張名所図会(愛知県図書館所蔵)

3.稲葉宿

図-9 長光寺六角堂/尾張名所図会
(愛知県図書館所蔵)

 稲葉宿は稲葉・小沢の両村で宿駅業務を行う合宿で、明治11年(1878)には、稲葉村と小沢村が合併して稲沢村となった。
 街道沿いにある長光寺を少し行ったところが、岐阜街道(旧鎌倉街道)の起点で、笠松を経て岐阜城に通じる。

4.萩原宿

 萩原宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋17軒で、美濃路の中では最も規模の小さい宿場。

5.起宿

 起川(木曽川)では、将軍の上洛や朝鮮通信使の来朝に際して、舟を並べて繋ぎ止め、その上に板などを渡してつくる「舟橋」がかけられた。 その舟の数は270艘以上で、江戸時代にかけられた回数は18回といわれている。
 また、清国の商人から8代将軍吉宗に献上された象を渡らせるために、象船がつくられたことでも知られている。 美濃路には四つの渡し場があるが、揖斐川(佐渡川)と境川(小熊川)では歩いて渡り、 長良川(墨俣川)では、見物人が騒いだために象船から逃げ出してしまったそうだ。

図-10 起川/尾張名所図会(「起 まちあるきマップ」尾西歴史民俗資料館)

6.墨俣宿

図-11 墨俣宿と四河川(地図はGoogleMap,2017)

7.大垣宿

図-11 大垣宿と美濃路・竹鼻街道(地図はMapionMap,2017)

3.参勤交代と美濃路・中山道

1.参勤交代

図-9 本庄宿/渓斎英泉 画

 鎌倉時代から御家人を鎌倉に参集させる制度はあったし、秀吉の頃には各地の大名の妻子を大阪に住まわせていた。 そうした参勤の制度を三代将軍家光は、武家諸法度を改訂して諸大名に義務化させた。これが参勤交代制度だが、 一年ごとの江戸と国元との往復では、数千人規模の行列ともなると、その道中の宿泊費だけでも膨大な経費となった。 逆に宿場側からすれば大口の収入源ともなり、宿場が栄えることにもなった。 主君は、厳重な警護ができる本陣に泊まり、随員等は旅籠に泊まる。その旅籠が足りない場合は近在の民家に泊まることになる。 本陣の宿泊費は、大体決められていたが、旅籠や民家などは交渉次第だったようだ。

2.美濃路

 美濃路の通行の大半が参勤交代関連。
 加賀の前田家は北国街道を東廻りで中山道に入るのが通常のルートだが、北国街道を南に下って中山道を進むルートや 美濃路廻りで東海道に出るルートも数回あった。これは100km以上も遠回りになる。
 文政4年(1821)以降の資料では、以下の藩の通行も比較的多かった。
  • 紀州藩*1)(徳川家 55万5千石)
  • 広島藩(浅野家 42万6千石)
  • 徳島藩(蜂須賀家 25万6千石)
  • 筑後 柳川藩(立花家 10万9千石)

図-10 松濤園(立花氏庭園)
(出典:Maechan0360)

*1)紀州藩の参勤交代ル-ト
①伊勢街道-<松坂>-船-<宮宿>東海道
②紀州街道-<大阪>-京街道-<京都>東海道
出典:『南紀徳川史』

3.中山道

参勤交代時、揖斐川より西の諸藩で中山道を通過した藩
◆中山道を指定されている藩
  • 越前 大野藩(越前松平家 5万石→土井家 4万石)
  • 越前 鯖江藩(間部家 5万石)
  • 越前 勝山藩(松平家 3万石→小笠原家 2万2千石)
  • 越前 敦賀藩(酒井家 1万石)……定府
  • 若狭 小浜藩(京極家 11万石3千石→酒井家10万3千石)
  • 美濃 高須藩(尾張松平家 3万石)
◆中山道の通行を許されている藩
  • 越前 福井藩(越前松平家 32万石)
  • 越前 丸岡藩(本多家 4万3千石→有馬家 5万石)
  • 近江 彦根藩(井伊家 35万石)
  • 近江 大溝藩(分部家 3万石)
  • 近江 仁正寺藩(市橋家 1万8千石)
  • 近江 三上藩(遠藤家 1万2千石)……定府
  • 美濃 大垣藩(石川家 5万石→→戸田家 10万石)
  • 美濃 郡上藩(遠藤家→→青山家 4万8千石)
  • 美濃 高富藩(本庄家 1万石)……定府
*2) 定府(じょうふ)大名
江戸に定住して参勤交代がない大名
水戸徳川家と老中や若年寄などの幕府の要職にある大名以外にも多数の定府大名はいたが、明確な区切りはなかったようだ。 支藩として新たにできた藩などで、特に開墾して増えた石高で立藩された新田藩が、定府となっている場合が多い。 宗藩が治めるため支藩の藩主が不在でも構わないからともいえる。 敦賀藩は小浜藩の支藩であり、七代藩主の時には若年寄になっている。 また、三上藩も五代藩主の時に若年寄で、高富藩の藩祖は五代将軍綱吉の小姓であった。
対して国元に留まる場合を在府という。

土井家

間部家

酒井家

小笠原家

京極家

本多家

井伊家

遠藤家

本庄家

4.通行状況/

(1)鵜沼宿の利用状況/享保16年(1731)~慶応2年(1866)
資料出典:栗木謙二、吉岡勲「鵜沼の歴史」

図-11 主な利用者団体の内訳


年代宮家・公家・高家通行
1731享保1比宮 伏見宮培子*3)通行
1749寛延2五十宮 閑院宮倫子*4)
1801享和1高家 中条家
1804文化1楽宮 有栖川喬子*5)
1811文化8高家 織田家通行
1831天保2登美ノ宮 有栖川吉子*6)
1831天保2有君 鷹司任子*7)通行
1843天保14高家 横瀬家
1844天保15近衛綱君*8)小休
1845弘化2高家 畠山家小休
1847弘化4高家 織田家
1847弘化4高家 武田家
1849嘉永2寿明君 一条秀子*9)通行
1854安政1(?姫の嫁入り)
1859安政6中将の姫?
1861文久1高家 大沢家
1861文久1和宮親子内親王
1862文久2高家 横瀬家
1863文久3高家 畠山家小休

表-1 朝廷関連の通行


藩主回数 藩主回数
薩摩薩摩島津4 紀伊紀州徳川7
日向
佐土原
島津2 丹波山家2
肥後熊本細川12 亀山松平2
人吉相良2 篠山青山2
宇土細川2 宮津松平2
肥前佐賀鍋島7 近江彦根井伊14
豊後中川3 膳所本多3
豊前小倉
小笠原
2
仁正寺
市橋6
筑後柳川立花9 大溝分部2
久留米
有馬3 若狭小浜酒井3
筑前福岡黒田8 越前福井松平15
秋月黒田4 大野土井11
土佐土佐山内3 勝山
小笠原
6
伊予
宇和島
伊達4 丸岡有馬4
大洲加藤3 加賀加賀前田4
長門長州毛利6 美濃加納永井14
安芸広島浅野15 大垣戸田7
出雲松江松平3 高須松平3
因幡鳥取池田7 尾張尾張徳川4
美作勝山三浦2 信濃松代真田6
備前岡山池田4 下総多胡久松3
但馬出石千石3 常陸水戸徳川21
豊岡京極2 陸奥仙台伊達2

表-2 大名の通行

*3) 比宮なみのみや………9代将軍家重の正室
*4) 五十宮いそのみや………10代将軍家治の正室
*5) 楽宮さざのみや………12代将軍家慶の正室
*6) 登美ノ宮………水戸藩主斉昭の正室
*7) 有君ありぎみ…………13代将軍家定の正室
*8) 綱君つなぎみ…………仙台藩主伊達慶邦の正室
*9) 寿明君すめぎみ…………13代将軍家定の正室

(2)起宿の宿泊数/文政5年(1822)~文久3年(1863)
藩主美濃路中仙道在府不明
大野藩土井家211373
勝山藩小笠原家58226
起宿 船庄屋 林家の記録より

(3)幕末の出来事と中山道の通行/天保13年(1842)~文久元年(1861)
【弘化3年(1846)】本庄宿

孝明天皇即位。
【弘化4年(1847)】
善光寺地震。
【嘉永1年(1848)】本庄宿

福井藩(藩主松平慶永)、西洋式大砲を鋳造。
【嘉永6年(1853)】本庄宿

小田原地震。ペリー浦賀に来航。徳川家宣13代将軍となる。
【嘉永7年/安政1年(1854)】鵜沼宿

日米和親条約締結。京都の大火。日英和親条約締結。日露和親条約締結
【安政2年(1855)】鵜沼宿

本庄宿

安政の大地震(江戸地震)。
【安政5年(1858)】鵜沼宿

井伊直弼、大老となる(安政の大獄~1860)。日米修好通商条約。
【文久1年(1861)】御嶽宿

皇女和宮、江戸へ下向。

図-12 中山道3宿本陣の利用者数

*10)『旧中山道鵜沼宿本陣桜井家文書』(平成23年各務原市歴史民俗資料館)
*11)『中山道本陣展~御嶽宿を中心として~』(平成8年中山道みたけ館)
*12)長谷川勇『本庄宿田村本陣宿帳』

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