第3回定例講演 (平成28年8月20日) |
戦時の記憶
<ゲスト> (戦時体験証言) 黒内 昭氏、間宮美一氏、野田和子氏
<ナビゲーター> (本地名文化研究会副会長)松尾 裕
*本ページは講演内容を参考に当編集部が作成したものです。
<ナビゲーター> (本地名文化研究会副会長)松尾 裕

講演についての掲載記事(中日新聞 2016/8/21 岐阜近郊)
◆大阪大空襲/大阪城周辺

【大阪陸軍兵器補給廠(出典:国土地理院/昭和23年(1948)米軍撮影)】
◆機銃掃射




【ガンカメラが捉えた映像より】
個人の体験
(以下『Wikipedia』より)- 大和ハウス工業会長の樋口武男は、国民学校(小学校)1年生だった1945年6月1日に尼崎市で、 低空飛行していた米軍のP-51 マスタングから機銃掃射を受けたが、家の近くの防空壕に飛び込み命からがら助かった。
- 一橋大学名誉教授の野中郁次郎は、小学校4年生だった1945年に疎開していた富士市で、グラマン(F4F ワイルドキャットかF6F ヘルキャットかは不明)から機銃掃射を受けた。 隠れていた木が激しく撃たれる直前に木から飛び出し九死に一生を得た。その時、パイロットの笑っている顔が見えた。
- 開高健は、第二次世界大戦終戦間近のまだ少年の頃に、低空飛行する米軍の戦闘機から機銃掃射を受けた。 逃げ回っているうち、見上げると米軍機の乗務員が笑っているのが見えた。
- 小澤征爾は、立川市の柴崎小学校の生徒だった第二次大戦中に、空襲警報を無視して弟と庭で遊んでいる時に、米軍機から機銃掃射を受けた。 低空飛行だったので操縦士の顔が見えた。これが西洋人を見た最初だった。
[樋口武男「私の履歴書」日本経済新聞、2012年3月3日]
[野中郁次郎「私と経営学 05」三菱総研倶楽部 Vol.5 No.5、2008年5月]
[「開高健の問い 3」(張競「詩文往還」)日本経済新聞 2013年8月25日]
[「私の履歴書」日本経済新聞 2014年1月4日]
米軍の戦闘機の翼には、戦果を記録するためにガンカメラが設置されており、機銃の引き金を引くと同時に録画が開始される仕組みになっていた。 2015年3月9日にTBSで、米国の公文書館に保存されていた、日本の全国各地で第二次大戦中に米軍機が行った機銃掃射のガンカメラの映像を 多数紹介し、機銃掃射を受けて生き残った日本人や、機銃掃射を行った米軍パイロットの証言によって、 日本の民間人に対する機銃掃射の実態を検証するドキュメンタリー「戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった」が放送された。