【ナウマンゾウの実物大モニュメント】
野尻湖畔から移設されたもの
日本では、凡そ3万5千年前
*)から太古の人々が暮らしていたと云われています。当時はナウマンゾウなどの大型獣を狩って、
その肉を生で食していたようです。ところが、温暖化によって森林が増え、草原が少なくなったためなのか、大型獣の姿が消えてしまうと、
狩猟相手が猪や鹿などに限られ、以前より食料が減ることになります。
そこで、木の実などを有効に食べるために煮炊きするようになったと考えられています。
そして、栗の木を植えたり、穀類を育てたりと農業が発展し、収穫した食料を蓄え集落も大きくなっていきます。
そうした縄文時代から弥生時代になると、集落同士の争いや併合などで豪族ー小国家ができ、統一国家へと進みます。
古墳時代では、その強大な権力を背景に大規模な水田開発が各地で進み、国家としての制度が確立された飛鳥時代では
収穫への祈りや感謝の祭礼が、ますます格式化され重要視されることになっていきます。
*) 最近では、2003年7月の金取遺跡(岩手県遠野市)の発掘調査では 8-9万年前、
2009年9月の砂原遺跡(島根県出雲市)の発掘調査では約12万年前などと云われているが、
2000年11月に発覚した石器捏造事件以来、3万5000年前より古い旧石器の研究が慎重になっているため、確定には至っていない。
【神饌料理】
そうした祭礼で神前に供える料理が神饌料理なのです。本来は調理した神饌(熟饌)を供えるのだが、
明治以降は、調理しない神饌(生饌)が正式とされています。
 【10饌の場合の神饌】 |
 【出雲大社ゆかりの神饌朝食】
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【大響料理】

【京料理展示大会で再現された大饗料理】
平安時代では、貴族達が天皇の親族らを招いて、豪華な料理でもてなします。その宴席に出される料理が大響料理です。国家内の秩序、延いては権力を
確認する意味合いが含まれることから、その豪華さに差がつけられたりするのです。
本質的には神饌料理なのですが、それを豪華に、そして中国風にアレンジしたものが大響料理なのです。
そのため、品目が偶数であったり、箸・匙を使ったり、味付けは食べる者が好みでできるように
醤
*)という調味料が添えられます。
*)醤(ひしお)
中国の古書『周礼』によると、政府の宴会用として、醤が百二十甕(かめ)備えられていたと記されており、なくてはならないものだったことがうかがえます。
しかしここに書かれている醤は、獣・鳥・魚などの肉を原料とした塩辛の類であり、大豆を原料としたものでなかったようです。
文献でみる限りこの頃の醤は、肉醤または魚醤だったということです。
穀醤が最初にあらわれるのは、中国湖南省から出土した紀元前2世紀(前漢時代)のとされています。
そして紀元1世紀(後漢時代)『論衡』に豆醤の記述が、さらに6世紀中頃(南北朝時代)『斉民要術』のなかに大豆にコウジを加えて醤をつくる方法が
述べられています。
このように周時代から前漢以前までは、肉醤または魚醤、前漢時代からは穀醤が併用され、以後穀醤が主流を占めるようになりました。
(キッコーマンHP「しょうゆ豆知識」より)
【精進料理】

【精進料理】(京の食文化ミュージアム・あじわい館から)
鎌倉時代に中国留学から帰った禅僧が広めた料理様式が精進料理です。
元々、中国北部の小麦文化圏の禅宗寺院に於いて、肉食を避けねばならない僧侶らが、動物性タンパク質の持つ優れた味覚を味わいたいとして
発達したものなのです。肉の旨みに近づけようとする中で、調味料では味噌や醤油
*1)が生まれ、
小麦粉や豊富なタンパク質を含む大豆からは、ふ(麩)
*2)、豆腐
*3)、湯葉、
納豆
*4)といった加工食品が生まれました。
また、それまで薬用(整腸)であったコンニャクが食用として使われるようになったのも、この頃と云われています。
青菜野菜やタケノコなどのあく抜きなどの下処理を通して調理技術が向上し、特に煮物料理に於ける「だし」への概念が生まれ、
日本独自の「和食文化」が芽生えた時期ともいえます。
*1)味噌と醤油
穀醤(こくびしお)の一つとして古くからある食材で調味料ではなかった。鎌倉時代になって、すり潰すとお湯に溶け、みそ汁が生まれ、
調味料として使われるようになった。
今日でも食べる味噌として「金山寺味噌」がよく知られているが、この味噌を作る過程で樽に溜まった液(たまり)が醤油の始まりと云われる。
心地覚心という僧によって鎌倉時代に伝えられたとされるが、平安初期の空海との説もある。
*2)麩(ふ)
元々、奈良時代以前に中国から伝わったとされるが、当時は、単に小麦粉を練り固めて茹でるだけのものだった。
これが今日のように練り固めた小麦粉から良質のタンパク質(グルテン)を抽出して作られるようになったのは鎌倉時代以降と云われる。
貴重なタンパク源であると共に、色々な形に加工しやすい「生麩」は料理を演出する材料として重宝された。
*3)豆腐
豆腐も中国から伝わったとされるが定かではない。その中国の豆腐は、生で食べることはないので、日本のように柔らかくはない。
その伝来時期も奈良から鎌倉時代まで様々であるが、いずれにしても、余り知られていない、ごく一部の特権階級に限られた食材であったであろう。
これが精進料理で使われるにつれて徐々に広まり、日本独自の軟らかい豆腐へと発展していったと思われる。

【一休寺納豆】
*4)納豆
現在、一般的に納豆と呼ばれているものは、納豆菌を発酵させた「糸引納豆」のことであり、それとは異なる、麹菌で発酵させたものを「塩辛納豆」という。
その「塩辛納豆」が中国から伝わったのは、奈良時代の頃と云われている。主に調味料として使われていたが、味噌の普及で姿を消すことになるが、
その製法を今に伝えている寺もあり、それぞれ「大徳寺納豆」、「一休寺納豆」などの寺の名で、精進料理とは別メニューで出されている。
一方、「糸引納豆」については、この鎌倉時代に発見されたとする説が有力のようだ。
【本膳料理】

【展示中の本膳料理】(「山ばな平八茶屋」)
神饌料理は神社、大響料理が貴族社会、精進料理が寺(僧侶)とすれば本膳料理は武家社会といえます。
室町時代に確立された武家作法から生まれた、儀式的要素が濃い日本料理といえますが、今日では冠婚葬祭などの儀礼的な料理に僅かにしか見られません。
結婚式での三々九度などがそれにあたります。
映画やドラマなどで描かれる饗応場面といえば、信長の時代の光秀や忠臣蔵の浅野内匠頭などが有名でしょう。
基本的には、本膳には七采、二の膳には五菜、三の膳には三菜と配膳する「七五三」の膳とします。
また、一般家庭や和食で用いられている「ご飯は左、汁物は右、おかずは奥」という配置はこの本膳料理からきています。
【懐石料理と会席料理】

【唐墨(からすみ)/大分県産】(11月中旬〜1月)
(名古屋八事「八勝館」)
安土桃山時代になると、茶の湯の普及と共に広まった料理です。
元々、お茶会の前にお腹を満たすために供されていた料理で、満腹にならない程度のささやかな食事でしたが、現代では豪華な食事へと変化しています。
堅苦しく延々と続く本膳料理ではなく、その一部の美味しい部分を、自由に楽しもうとして発展をみたのが、懐石料理です。
茶の湯では一期一会という精神が強調されたことから、その場その場での出会いを大切にするという精神が、料理そのものにも表れています。
旬の食材や器、盛り付けなどへのこだわりが懐石の特徴といえます。
この懐石料理から茶の湯を除いて、お酒を飲みながらいただくのが会席料理です。
そのため、懐石ではご飯が先に出されるのに対して会席では最後に出されます。
江戸時代になると、お金を払って飲食を楽しむという料理屋の出現が会席料理の始まりともいえます。
それまでは、金銭を代償に料理を味わうための料理屋は存在しませんでした。
また、料理に関する本が出版され始めたのもこの頃からです。
こうして金銭によって、「料理を味わう」、「料理の知識や技術を得る」ことができるようになったのです。