Lecture/第6回定例講演 2016/2/20

UpDate/2016/3/2


目 次
  1. ▸日本料理の食文化
  2.   ▸神饌料理
  3.   ▸大響料理
  4.   ▸精進料理
  5.   ▸本膳料理
  6.   ▸懐石料理と会席料理
  7. ▸食とかかみがはら
  8.   ▸護命僧正と護命味噌
  9.   ▸織田信長と山の芋
  10.   ▸伊能忠敬とねぶか雑炊

食・中山道・かかみがはら
   〜護命・信長・忠敬を食の視点でみる
(中山道鵜沼宿ボランティアガイドの会会長)  近藤 章

このページは、本講演資料を参考に、当編集部が独自に作成したものです。

◆日本料理の食文化

【ナウマンゾウの実物大モニュメント】
野尻湖畔から移設されたもの

 日本では、凡そ3万5千年前*)から太古の人々が暮らしていたと云われています。当時はナウマンゾウなどの大型獣を狩って、 その肉を生で食していたようです。ところが、温暖化によって森林が増え、草原が少なくなったためなのか、大型獣の姿が消えてしまうと、 狩猟相手が猪や鹿などに限られ、以前より食料が減ることになります。 そこで、木の実などを有効に食べるために煮炊きするようになったと考えられています。 そして、栗の木を植えたり、穀類を育てたりと農業が発展し、収穫した食料を蓄え集落も大きくなっていきます。 そうした縄文時代から弥生時代になると、集落同士の争いや併合などで豪族ー小国家ができ、統一国家へと進みます。
 古墳時代では、その強大な権力を背景に大規模な水田開発が各地で進み、国家としての制度が確立された飛鳥時代では 収穫への祈りや感謝の祭礼が、ますます格式化され重要視されることになっていきます。
*) 最近では、2003年7月の金取遺跡(岩手県遠野市)の発掘調査では 8-9万年前、 2009年9月の砂原遺跡(島根県出雲市)の発掘調査では約12万年前などと云われているが、 2000年11月に発覚した石器捏造事件以来、3万5000年前より古い旧石器の研究が慎重になっているため、確定には至っていない。

神饌しんせん料理】

そうした祭礼で神前に供える料理が神饌料理なのです。本来は調理した神饌(熟饌)を供えるのだが、 明治以降は、調理しない神饌(生饌)が正式とされています。

【10饌の場合の神饌】

【出雲大社ゆかりの神饌朝食】


【大響料理】

【京料理展示大会で再現された大饗料理】

 平安時代では、貴族達が天皇の親族らを招いて、豪華な料理でもてなします。その宴席に出される料理が大響料理です。国家内の秩序、延いては権力を 確認する意味合いが含まれることから、その豪華さに差がつけられたりするのです。  本質的には神饌料理なのですが、それを豪華に、そして中国風にアレンジしたものが大響料理なのです。 そのため、品目が偶数であったり、箸・匙を使ったり、味付けは食べる者が好みでできるように 醤*)という調味料が添えられます。
*)醤(ひしお)
中国の古書『周礼』によると、政府の宴会用として、醤が百二十甕(かめ)備えられていたと記されており、なくてはならないものだったことがうかがえます。 しかしここに書かれている醤は、獣・鳥・魚などの肉を原料とした塩辛の類であり、大豆を原料としたものでなかったようです。 文献でみる限りこの頃の醤は、肉醤または魚醤だったということです。
穀醤が最初にあらわれるのは、中国湖南省から出土した紀元前2世紀(前漢時代)のとされています。
そして紀元1世紀(後漢時代)『論衡』に豆醤の記述が、さらに6世紀中頃(南北朝時代)『斉民要術』のなかに大豆にコウジを加えて醤をつくる方法が 述べられています。
このように周時代から前漢以前までは、肉醤または魚醤、前漢時代からは穀醤が併用され、以後穀醤が主流を占めるようになりました。

(キッコーマンHP「しょうゆ豆知識」より)


【精進料理】

【精進料理】(京の食文化ミュージアム・あじわい館から)

 鎌倉時代に中国留学から帰った禅僧が広めた料理様式が精進料理です。 元々、中国北部の小麦文化圏の禅宗寺院に於いて、肉食を避けねばならない僧侶らが、動物性タンパク質の持つ優れた味覚を味わいたいとして 発達したものなのです。肉の旨みに近づけようとする中で、調味料では味噌や醤油*1)が生まれ、 小麦粉や豊富なタンパク質を含む大豆からは、ふ(麩)*2)、豆腐*3)、湯葉、 納豆*4)といった加工食品が生まれました。 また、それまで薬用(整腸)であったコンニャクが食用として使われるようになったのも、この頃と云われています。
 青菜野菜やタケノコなどのあく抜きなどの下処理を通して調理技術が向上し、特に煮物料理に於ける「だし」への概念が生まれ、 日本独自の「和食文化」が芽生えた時期ともいえます。
*1)味噌と醤油
穀醤(こくびしお)の一つとして古くからある食材で調味料ではなかった。鎌倉時代になって、すり潰すとお湯に溶け、みそ汁が生まれ、 調味料として使われるようになった。
今日でも食べる味噌として「金山寺味噌」がよく知られているが、この味噌を作る過程で樽に溜まった液(たまり)が醤油の始まりと云われる。 心地覚心という僧によって鎌倉時代に伝えられたとされるが、平安初期の空海との説もある。

*2)麩(ふ)
元々、奈良時代以前に中国から伝わったとされるが、当時は、単に小麦粉を練り固めて茹でるだけのものだった。 これが今日のように練り固めた小麦粉から良質のタンパク質(グルテン)を抽出して作られるようになったのは鎌倉時代以降と云われる。 貴重なタンパク源であると共に、色々な形に加工しやすい「生麩」は料理を演出する材料として重宝された。

*3)豆腐
豆腐も中国から伝わったとされるが定かではない。その中国の豆腐は、生で食べることはないので、日本のように柔らかくはない。 その伝来時期も奈良から鎌倉時代まで様々であるが、いずれにしても、余り知られていない、ごく一部の特権階級に限られた食材であったであろう。 これが精進料理で使われるにつれて徐々に広まり、日本独自の軟らかい豆腐へと発展していったと思われる。

【一休寺納豆】



*4)納豆
現在、一般的に納豆と呼ばれているものは、納豆菌を発酵させた「糸引納豆」のことであり、それとは異なる、麹菌で発酵させたものを「塩辛納豆」という。 その「塩辛納豆」が中国から伝わったのは、奈良時代の頃と云われている。主に調味料として使われていたが、味噌の普及で姿を消すことになるが、 その製法を今に伝えている寺もあり、それぞれ「大徳寺納豆」、「一休寺納豆」などの寺の名で、精進料理とは別メニューで出されている。 一方、「糸引納豆」については、この鎌倉時代に発見されたとする説が有力のようだ。

【本膳料理】

【展示中の本膳料理】(「山ばな平八茶屋」)

 神饌料理は神社、大響料理が貴族社会、精進料理が寺(僧侶)とすれば本膳料理は武家社会といえます。
 室町時代に確立された武家作法から生まれた、儀式的要素が濃い日本料理といえますが、今日では冠婚葬祭などの儀礼的な料理に僅かにしか見られません。 結婚式での三々九度などがそれにあたります。
 映画やドラマなどで描かれる饗応場面といえば、信長の時代の光秀や忠臣蔵の浅野内匠頭などが有名でしょう。
 基本的には、本膳には七采、二の膳には五菜、三の膳には三菜と配膳する「七五三」の膳とします。 また、一般家庭や和食で用いられている「ご飯は左、汁物は右、おかずは奥」という配置はこの本膳料理からきています。

【懐石料理と会席料理】

【唐墨(からすみ)/大分県産】(11月中旬〜1月)
(名古屋八事「八勝館」)

 安土桃山時代になると、茶の湯の普及と共に広まった料理です。 元々、お茶会の前にお腹を満たすために供されていた料理で、満腹にならない程度のささやかな食事でしたが、現代では豪華な食事へと変化しています。 堅苦しく延々と続く本膳料理ではなく、その一部の美味しい部分を、自由に楽しもうとして発展をみたのが、懐石料理です。 茶の湯では一期一会という精神が強調されたことから、その場その場での出会いを大切にするという精神が、料理そのものにも表れています。 旬の食材や器、盛り付けなどへのこだわりが懐石の特徴といえます。
 この懐石料理から茶の湯を除いて、お酒を飲みながらいただくのが会席料理です。 そのため、懐石ではご飯が先に出されるのに対して会席では最後に出されます。 江戸時代になると、お金を払って飲食を楽しむという料理屋の出現が会席料理の始まりともいえます。 それまでは、金銭を代償に料理を味わうための料理屋は存在しませんでした。 また、料理に関する本が出版され始めたのもこの頃からです。 こうして金銭によって、「料理を味わう」、「料理の知識や技術を得る」ことができるようになったのです。


◆食とかかみがはら

【護命僧正(750〜834)と護命味噌】

【東大寺戒壇堂】(出典:LonelyTrip HP)

 美濃国各務郡出身の法相宗ほうそうしゅう*1)の高僧で、 日本における法相教学の大成者です。 17歳で得度*2)を受け、元興寺に入って法相宗を学び、半世紀を経て大僧都にまで上りつめます。 最澄が延暦寺に戒壇*2)を築こうとして、護命が反対した話は有名です。 護命は多くの著作を残したとされていますが、現存するのは『大乗法相研神章』のみなのです。 仏教を出来る限り解りやすく説こうとする護命の姿勢が窺え、法相宗を学ぶ資料として高く評価されています。 平仮名の「いろは」を創ったのは護命とも言われています。
護命が法論の間に粥に添えて出した味噌として伝えられているのが護命味噌です。明日香味噌とも言われています。
*1)法相宗
中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。
653年、道昭が唐留学から帰国して飛鳥法興寺でこれを広めたのが始まり。 後に元興寺が奈良に創建されると拠点がここに移る。 さらに、玄ムが唐留学から戻って、興福寺から法相宗が広められることになる。 前者を元興寺伝(南伝)、後者を興福寺伝(北伝)と呼ばれた。 南伝は、護命の頃に隆盛を極めたが、後に興福寺に吸収される。 現在は、興福寺と薬師寺の2本山が法相宗を統括している。 他に離脱宗派に法隆寺の聖徳宗と清水寺の北法相宗がある。

*2)得度、戒壇
仏教における僧侶となるための出家の儀式。 出家すると、労働、納税、兵役を免除されていたため、僧侶になる者が続出した。 そのため、得度を国家の許可制とした。 すると、出家して得度を受けない者(私度僧)が出てきたので、戒律を授けて、その戒律を守れる者だけを僧と認めることとしたのだ。 その戒律を授ける場所が戒壇である。754年、東大寺に戒壇が築かれたのが始まり。 戒壇を築こうとした最澄に反対した護命。修行もしない不埒な僧をなくそうとした最澄。 一方で、一宗派に偏った戒律の、行き過ぎた押し付けが本山の権威化を招くとする護命。 今の教育現場でも、ありがちな論争ともいえる。因みに、護命を慕う空海は私度僧である。 後に延暦寺の戒壇は認められることになったが、中国の仏教はこれを認めていない。 だから、延暦寺の僧は中国では僧と認めていない。

【織田信長(1534〜1582)と山の芋】

永禄 8年(1565)5月、織田上総介信長公、伊木高山において山之芋ご賞味(『武功夜話*)』より)
*)武功夜話
尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成したもの。
愛知県江南市の吉田家に、先祖であると称する前野氏の歴史をまとめた書物として伝えられているが、 当書物の原本が未だに公表されておらず、調査研究がなされていないため、歴史的評価は不確定のままである。

@伊木清兵衛(1543〜1603)
尾張清洲で生まれ、名は香川清兵衛。
織田信長の美濃攻めに従軍し、伊木山の斎藤勢を攻めた際に著しい武功を挙げた。 この功により信長より「伊木」の姓を賜り、伊木忠次(ただつぐ)と名のる。さらに伊木山への築城も許され、伊木山城を構えたとされる。
その後、信長の重臣池田恒興の家臣となる。信長没後、豊臣秀吉は、陪臣(家臣の家臣)である忠次を家臣に迎えようとするが、 忠次はこれを固辞し、終生、池田家に仕えた。
関ケ原の戦いで主君池田輝政が播磨52万石姫路城主となると、筆頭家老として3万7千石三木城主となる。

A前野将右衛門(1528〜1595)
本名は坪内 光景。
羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣である。豊臣政権下では聚楽第造営の奉行を務めた。 豊臣秀次付の家老となった後、秀次が謀反の罪により秀吉に自害させられると、連座して自害を命じらている。

B磊落(らいらく)
度量が広く、小事にこだわらないこと。また、そのさま。

【木曽川上流より伊木山を望む】左手は犬山城


【伊能忠敬(1745〜1818)とねぶか雑炊】

 上総国山辺郡小関村(千葉県山武郡九十九里町小関)の名主の小関家の次男として生まれました。幼名は三治郎。 幼くして母を亡くし、父が婿養子であったことから、家を出ることになった辺りの事情は詳しくは分からない。

【ねぶか雑炊】

17歳の時に、香取郡佐原村(香取市佐原)にある酒造家の伊能家に婿養子として入り、名を忠敬と改め、伊能家を継ぐことになりました。 忠敬は、家業の酒造や河川運送業(河岸問屋)などに専念し、伊能家を盛り立て、かなりの財を築いたとようです。 地頭からは、名主を監視する権限のある村方後見に任じられます。
 50歳になって、ようやく隠居が認められた忠敬は江戸に出て高橋至時に師事し、 全国測量への第2の人生が始まります。 忠敬が鵜沼に立ち寄ったのは、文化 6年(1809)10月17日、第七次測量で九州に向かう途中のことでした。 忠敬一行は、うとう坂で「ねぶか雑炊」のもてなしを受けた様子が、鵜沼宿本陣桜井家の古文書から窺えます。

【鵜沼宿本陣桜井家の古文書より】(改行及び「ニ」を「に」に改変)


*)高橋〔作左衛門〕景保かげやす(1785〜1829)
高橋至時の長男で、父亡き後を継いで幕府天文方となり、忠敬の全国測量を監督。 「大宝歴」を完成させた渋川景佑は実弟。その景佑も忠敬の測量にも同行したことがある。 忠敬亡き後、彼の実測を基に『大日本沿海輿地全図』を完成させている。 その後、シ−ボルト事件(シーボルトに日本地図を贈ったとして罪に問われた)で獄中死している。

<引用・参考文献>
1)『日本料理の歴史』』熊倉功夫 著
2)『日本食の歴史』農林水産省
3)『信長のおもてなしー中世食べ物百科』江後迪子 著
4)『戦国武将の食生活』永山久夫 著

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