あの世の地名/お寺育ちの氏が見たあの世の地名
(愛知地名文化研究会事務局長)大山 英治
このページは、本講演資料を参考に、当編集部が独自に作成したものです。
◆あの世における審判ロード ー死後における裁きー
臨 終
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死出の山
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*【本地仏】 本来の仏の姿。
十王信仰は中国の唐の時代に成立したといわれている。この十王経が日本に伝えられたのは飛鳥時代とされているが、
大衆信仰として広く浸透していったのは平安末期頃で、鎌倉期以降、この本地仏が裁判官の真の姿として関連づけられ、益々、仏教の普及に利用されていった。
=参考=
- 五戒
- ・不殺生戒……生き物を殺してはいけない。
- ・不偸盗戒……他人のものを盗んではいけない。
- ・不邪淫戒……不道徳な性行為を行ってはならない。強姦や不倫の他、性行為に溺れるなどの行為も含む。
- ・不妄語戒……嘘をついてはいけない。
- ・不飲酒戒……酒に溺れてはいけない。
- 六道
- 天道
- 天道は天人が住まう世界である。
天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされる。
また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれる。しかしながら煩悩から解き放たれておらず、仏教に出会うこともないため解脱も出来ない。
天人が死を迎えるときは5つの変化が現れる。これを五衰(天人五衰)と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、
脇から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の花が萎む。
- 人間道
- 人間道は人間が住む世界である。
四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界であるが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるとされる。
また、唯一自力で仏教に出会える世界であり、解脱し仏になりうるという救いもある。
- 修羅道
- 修羅道は阿修羅の住まう世界である。
修羅は終始戦い、争うとされる。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界である。
- 畜生道
- 畜生道は牛馬など畜生の世界である。
ほとんど本能ばかりで生きており、使役されなされるがままという点からは自力で仏の教えを得ることの出来ない状態で救いの少ない世界とされる。
他から蓄養されるもの、是すなわち畜生である。
- 餓鬼道
- 餓鬼道は餓鬼の世界である。
餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる。
他人を慮らなかったために餓鬼になった例がある。旧暦7月15日の施餓鬼はこの餓鬼を救うために行われる。
- 地獄道
- 地獄道は罪を償わせるための世界である。
このうち、地獄から畜生までを三悪趣(三悪道、あるいは三悪、三途)と呼称し、これに対し修羅から天上までを三善趣と呼称する場合がある。
【出典:Wikipedia】
八大地獄
八層構造で下にいく程、苦しみが倍増する。
等活地獄
いたずらに生き物を殺めた罪。例え小動物も、懺悔しなければ必ずこの地獄に堕ちる。
自らの身に備わった鉄の爪や刀剣などで殺し合う。何度でも元の身体に生き返って、その責め苦が繰り返されるゆえに「等活」という。
刑期は1兆6653億1250万年 (これで最も短い刑期。出所しても、すでに地球は存在しない)
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黒縄地獄
殺生のうえに盗みを重ねた者がこの地獄に堕ちる。
熱く焼けた縄で追い立てられ、鉄の縄の上を渡らせられ、縄から落ちて砕けるか釜ゆでとなる。
刑期は13兆3225億年
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衆合地獄
上に加えて邪淫の罪
両側の鉄の山が崩れ落ち、圧殺される。鉄の巨象に踏まれて押し潰される。
剣の葉を持つ林の木の上に美人が誘惑して招き、登ると今度は木の下に美人が現れ、その昇り降りのたびに体から血が吹き出す。
刑期は106兆5800億年
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叫喚地獄
上に加えて飲酒の罪(酒に毒を入れて人殺しをしたり、他人に酒を飲ませて悪事を働くように仕向けた)
熱湯の大釜や猛火の鉄室に入れられ、号泣、叫喚する。焼けた鉄の地面を走らされ、鉄の棒で打ち砕かれる。
刑期は852兆6400億年
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大叫喚地獄
上に加えて妄語(うそ)の罪
叫喚地獄で使われる鍋や釜より大きな物が使われ、更に大きな苦を受け泣き叫ぶ。
刑期は6821兆1200億年
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焦熱地獄 / 炎熱地獄
上に加えて邪見(仏教の教えとは相容れない考えを説き、また実践する)の罪
常に極熱で焼かれ焦げる。赤く熱した鉄板の上で、また鉄串に刺されて、またある者は目・鼻・口・手足などに分解されてそれぞれが炎で焼かれる。
刑期は5京4568兆9600億年
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大焦熱地獄 / 大炎熱地獄
上に加えて犯持戒人(尼僧・童女などへの強姦)の罪
更なる極熱で焼かれて焦げる。この地獄に落ちる罪人は、死の三日前から中有(転生待ち)の段階にも地獄と同じ苦しみを受ける。
刑期は43京6551兆6800億年
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阿鼻地獄 / 無間地獄
上に加えて父母・阿羅漢(聖者)殺害の罪
この地獄に到達するには、真っ逆さまに落ち続けて2000年かかるという。さきの七層の地獄以上に剣樹、刀山、湯などの苦しみを絶え間なく受ける。
舌を抜き出されて100本の釘を打たれ、毒や火を吐く虫や大蛇に責めさいなまれ、熱鉄の山を上り下りさせられる。
刑期は349京2413兆4400億年
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【往生要集】
天台中興の祖と称される良源(912〜985)の弟子源信(942〜1017)がまとめた念仏理論の教本。法然や親鸞にも影響を与えたと同時に、
この大衆信仰の浸透にも多大な影響を与えた。上の8枚の絵は、江戸期(1790)に再販された「往生要集」の挿絵の地獄絵図。
これによって地獄極楽や六道の観念が広く大衆に広まったと言われている。(それにしては、どの絵も同じようにみえるが)
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◆三途の川

〔長寿院観音寺所蔵地獄絵図〕
現世とあの世を分ける境界を流れる川。
元々は
六道の三悪道である地獄・餓鬼・畜生を三途ということからが由来であったが、三通りの渡り方がある川だからという方が
広く浸透している。
1.山水瀬・・・浅瀬(悪行軽き者)
2.江深淵・・・急流(悪行重き者)
3.有橋渡・・・橋(善行の者)
仏教様式では、六文払って舟で渡るので、六文銭と印刷された紙(冥銭)を
お棺に入れる。

[青森県むつ市の霊場恐山]
【
懸衣翁と
奪衣婆】
奪衣婆が身ぐるみ剥いで、それを懸衣翁が木に掛ける。その木は枝のしなり具合で罪の重さが判るという便利な木。
(こんな木が検察にあったら大変?)
奪衣婆は、懸衣翁と夫婦とも、閻魔大王の妻ともいわれている。
外国でも同様な死後の旅が各地で描かれている。
▼ギリシャ神話では三途の川を「ステュクス川」と言い、不愛想なカロンはそこの渡し守。(渡し賃は銀貨一枚)

[『ステュクス川を渡るカロン』/パティニール ( 1480-1525)]
▼細くなった橋で天使に導かれるか、三途の川に落ちるかが審判されている。

[サンタ・マリア教会フレスコ画/ロレット・アプルチノ]
【 全国に実在する三途川 】
●青森県むつ市/宇曽利山湖から流れる正津川の別名
●秋田県湯沢市/観光名所「三途川渓谷」として知られる
●宮城県刈田郡蔵王町/阿武隈川水系濁川支流の小河川で「さんずのかわ」と読む
●千葉県長生郡長南町/一宮川の支流
●群馬県甘楽郡
甘楽町/利根川水系白倉川支流の小河川で「さんずがわ」と読む
◆死後の世界は存在するのか
かって話題になった「臨死体験」(1994)の著者、立花 隆氏。
当時の彼は、あくまでも魂の存在には否定的で、寧ろ、そのことを科学的に証明しようという立場だった。
その彼が病に倒れ、当時より死を身近に感じながら挑んだドキュメンタリー番組ーNHKスペシャル
「臨死体験 死ぬとき心はどうなるか」が、昨年(2014)の9月に放映され注目を集めた。
そこでも彼は脳が作り出している心(意識)以外の心(魂)の存在を否定し切ることはできなかった。
いかに脳科学が進歩したといえども、この人類永遠のテーマを解き明かせるなどとは、視聴者の誰しもが思ってはいなかったであろうが。
脳が作り出す仮想空間を、実験室の中で自在にコントロールできたとしても、その存在の証明にはならない。
一方で臨死体験こそ、その存在を証明する手掛かりになると研究を進める脳神経外科医エベン・アレキサンダー博士が出演。
既にその体験を著した『プルーフ・オブ・ヘヴン』/白川貴子訳でも有名な臨死体験、それは、細菌によって脳を侵され、
昏睡状態に陥った時の体験だ。7日目に奇跡的に生還でき、その時のスキャン画像や臨床検査や神経学的検査の所見など、
そのすべてのデータを詳細に調べ、脳が完全に停止していたというから、それなりの説得力があるといえる。
では、その体験をしている人物が果たして自分自身であると意識できていたのだろうか。
自己意識できない心は、もはや心とはいえない。その自我を支えるためには記憶もまた重要なのだが
果たして、あの世に旅立つ心に記憶はあるのだろうか。
仮にそうだとしたら、人生半ばで無念の最後を遂げた人にとって(現世が気掛かりで)何とも哀しい。
現世の記憶が薄れ、新たな自我が生まれるとすれば、旅立った時の心は消滅したとも言える。
脳とは別の心と、その心が作り出す、我々の目には見えない身体が、この宇宙を満たしているとしたら、
それはダークマター(暗黒物質)やダークエネルギーなのかもしれない。
(全宇宙で我々が感知できる物質:4%、ダークマター:22%、ダークエネルギー:74%)
『 心 』とは
心とはいわゆる感覚・知覚および知・情・意の働き、ないしはその座をいう。哲学のうえで心を特徴づけるとすれば、人間を人格たらしめる原理であるといえよう。
しかし、いま少し具体的に心を規定するには、それが何と対立して考えられるかをみればよい。
- 心は身体に対立させられる。この場合、心は、身体に受けた刺激を受容するもの、身体を動かすものなどと考えられる。
- 心は行動、ふるまいに対立するものとして考えられる。表だった行動の背後にあり、行動とは独立に働くものとして、
いわゆる思考、感情、意志などの座として心が設定される。
- 人間同士が人間として異なるとすれば、それは異なる心をもつからであるとして、人間同士を異ならせるものとしての心が考えられる。
- この世界が見え、聞こえ、味わわれているのは、ほかならぬ自分にとってであるとして、世界いっさいに対立する「自分」としての心が考えられる。
このように「心」はけっして単純な概念ではないが、そこに共通してみいだされるのは、
人間を単なる「物」でない「者」(人格)とする原理だということである。[解説/伊藤笏康]
【三省堂日本大百科全書】
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