Lecture

UpDate/2016/3/2


 =MENU(2015)=

  1. 各務原という地名
  2. 月に地名をつけた日本人
  3. 十万年前の川の跡
  4. 日本人のルーツ
  5. 零戦と各務原
  6. 災害立国日本
  7. 各務原から展開する古代地名
  8. 私が巡った外国の地名
  9. あの世の地名
  10. 本美濃紙のお話し
  11. 「がんどばぼち」と木遣音頭
  12. 食・中山道・かかみがはら
  13. 第34回全国地名研究者大会
第4回定例講演
(平成27年10月17日)


T.各務原から展開する古代地名
(濃尾・各務原地名文化研究会副会長)瀬川 照子


◆地名と人は移動する

【大和と筑紫の地名の比較(『卑弥呼と邪馬台国』安本美典著/1983より)】

[背景は『三十六歌仙額』
(狩野安信)より参照]

 北九州筑後川流域の地名が、近畿・奈良盆地中心の地名に対応することは、昭和の50年代から指摘されていた。 安本美典氏よって「地名と人は同時に移動」が明確に示されている。この地図に示された中に近年の合併で消滅した地名が多く残念である。
 各務原の地名の一例に、鵜沼の旧地名宇留間があり、蘇原の加佐見神社周辺に金武姓がある。 沖縄県の旧名が宇留間であり、金武町、金武湾の地名が現存する。 福岡市に那加、須恵地区、金武地区、近くに可也山かややまとこの各務原市の中にも縁のある名を見出せる。 遡ること允恭いんぎょう天皇3年(414)「秋8月新羅の国王との御調81艘の大使として 深く薬方クスリノミチを知った金武が来朝した」と日本書紀にある。

[三国時代の朝鮮半島]

左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4〜5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。 伽耶は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。(Wikipediaより)
蘇原の加佐美神社は笠見や八幡と名を変えているが、全て関わりある金武姓は金管伽耶かやの王家の出自。 加佐(笠)は伽耶地名である。 同地の安曇氏は海人族で各地に地名と名を残している。 「斉明天皇のとき安曇比羅夫が水軍を率いて日本海沿岸を北上、各地に拠点を置き・・」と斉明期に記載がある。 このことから新羅国、沖縄、宇佐八幡(金武古墳群)、福岡……各務と移動してきたことも想像できる。

◆岐阜県の美濃地域の古代読み方の変遷

[饒速日の像(石切劔箭神社)]

 ミノはアイヌ語で湾岸の奥まった土地と解釈できるようである。古代の美濃に三野氏(後述する)は実在したが、地名としての三野が先と解釈できる。 大野、大垣における青野、各務原の各務野、加茂野は、古代には三大「野」とされている。 三野地域の者が、天武王朝成立に貢献したことで御野(正倉院戸籍702年)となり、さらに、美しい地名にとの命令で美農と改称された。
 「国造本紀」こくぞうほんぎ*、成務天皇期の記述に、三野前国造は「ミノノミチノクチノクニノミヤツコ」と訓み、 開花天皇の皇子、日子坐ひこいますの子の八瓜入彦やつりいりひこは三野前国造で名を残している。
 ところで美濃名は三野王との関わりがあるのかどうか。 三野物部は饒速日にぎはやひ命降臨時随伴氏族の1人である。 饒速日は古事記に2回、日本書紀で4回あらわされ、 その他『記紀』に天火明命あめのほあかり天忍穂耳尊あまのおしほみみのみことの御子 または火明命・瓊瓊杵尊ににぎのみことの御子)と多く記されている。 村国神社や真墨田神社の祭神に天火明名がみえる。 天火明11年乎止與命おとよのみことが初代尾張国造である。
*【国造本紀】
日本古代の史書。《先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)》の一部編。巻十に当たる。 古訓では〈くにのみやつこのもとつふみ〉となるが,本書が平安時代の成立なので通常は音読。 畿内大倭から多ね(たね)までの大化前代の地方官豪族である国造(くにのみやつこ)名を掲げ,その系譜と任命設置時を示している。 後世の国造である律令国造の名や国司名も混入しているが,他に例のないまとまった国造関係史料なので,独自の価値を持ち古代史研究の史料となっている。
(『世界大百科事典 第2版』より)

◆もう一つの各務原考 (各は「かか」と「かが」どちらが正しい古代読み?)

 40年前にこの地に来た時は周りの人々はカガミガハラと発声していた。 カカとカガはどちらが発音し易いか。一般に人は濁音を嫌う傾向があり、文字では清音にして、読みでは濁音で発生する。 その反対もある。例えば天智天皇=てんじで引き、てんちと読む、承久の古戦場=じょうきゅうで引き、しょうきゅうと発声する人がいる。 各務勝吉雄と各務勝吉宗は広野河事件に名を残している。
 ここではカガム氏とある。大宝2年には各務の“む”が“牟”で記載されている。 牟田・ムタは稲作に適した湿っぽい・ジュクジュクしたという意味がある。こういう所に蛇は多い。

[古物商店で見つけた釜の蓋に蛇が首を出す穴]

辞典でカカを引くと各は出てこない。カカやカガには蛇の意味がある。蛇の呼名は驚くほど多く、今は死語になっているが羽場・ハバも蛇の意味があった。 蛇足だが羽場近郊で育った現在は50 歳半ばの女性の子供の頃の記憶に、蝮は病気の治療に、蛇は栄養素材として食したと言う。 ふりかけ状、あるいはご飯に炊き込みに。半信半疑であったが、那加のスーパー横の古物商店で釜の蓋の真ん中に穴を開けた物を見つけ、 店主に聞いたところ生きたまま火にかけると穴から首を出すと言う。彼女に聞いた通りだった。 珍しいので購入して資料館に寄贈しようと値を聞いたら蓋だけで6000 円もすると言う。引き取って貰えないと困るので止めた。
 各務原市図書館で各務原の草場で、蛇を捕獲し売 り歩く男の人を描いた子供向けの本も見つけた。 木曽川対岸の犬山の犬とカカやカガの蛇は超古代には、犬は人の話の解かるその知的な霊力と、 爬虫類唯一の瞬きをしない蛇の目は太陽と同一の扱いで、神として崇められていた。 近年まで苧ケ瀬地区には伝蛇神仰があったそうだ。 長やナーガは東南アジアの蛇神信仰からみで、水神・龍神・竜神であり、火神で金属神でもあるがなによりも土地神(地霊)でもある。 海人族の蛇や龍との関わりは有名である。文武天皇3年(699)藤原宮出土の木簡に表:三野国各美、裏:汚奴麻里五百木部加西とある。 伊(木山)の近くに真墨(田神社)と真名(越)地名と火明命、石凝姥、イシコリドメと鏡造りに深縁な名があり、各務原と云う地名の由来を感じさせる。 和銅6 年(713)に各牟から各務に改正された。

◆各務郡の諸郷のこと

『和名類聚抄』わみょうるいじゅしょう*によれば美濃国各務郡には、 村国、大榛、各務、那珂、芥見、三井、駅家うまやの7郷に分かれていたとの記述が残されている。 「郷」の広さは、江戸時代の「村」の3〜8倍あったと推定されている。
*【和名類聚抄】
平安時代中期に作られた辞書、万葉仮名で日本語に対応する名詞の読み表記。6〜8 巻(第2 冊)と9 巻(第3 冊)は地名について(美濃国は7 巻)

[『和名類聚抄』(全5 冊20 巻本)]


[村国男依(菊池容斎作)]

村国郷には、式内社*、村国真墨田神社(祭神=天火明命・村国男依)の最古の棟札に、 天正12年(1584)「南宮大明神村国宮」「真墨田南宮大明神」「濃州各務郡村国庄鵜沼村惣社」とある。 承応2 年(1653)の棟札には「村国南宮大明神」とあり各務原市鵜沼山崎町にある式内社村国真墨田神社は、村国郷の地に所在したと云えられている。
*【式内社】 延喜式えんぎしき神名帳(927)に記載されている神社のことを特に「式内社」と称する。 美濃国の39 座(神座)38 社の内、各務郡には7座6社(伊波乃西神社、村国神社、飛鳥田神社、村国真墨田神社、加佐美神社、御井神社)あった。

[村国真墨田神社(本楽祭より)]

[落葉高木『榛の木』]

大榛郷は、岐阜大元教授の一言で坂祝に比定されたと云う。その後時間経過の中何ら反論がない。 大榛の榛は榛の木を表している。榛の木は30 数年前頃には各務原市内でも良く見かけたが、今はあまり無い。 その榛が坂祝の大針に比定されていることは納得がいかない。各務原と坂祝の境は鵜沼の北側に山々が連なっている。 市内では最高峰の山であり、歩くとかなり嶮しい。坂祝の大針は連座している東端の勝山・猿喰より遠く、むしろ美濃加茂か犬山に組み入れた方が自然である。 発音が同一と言う事なら、春日井の“小針”を明治になり“尾張”県名にしている(犬山は犬山県に)。 春日井市の東北方位置に山々が連座している所に大針地名がある(今は可児市)。 訪ねてみると高地であり、何故“針”の文字を付けているのかこれもまた解釈に困る。古代の地名に播磨を針間と記述があり、尾張氏の系譜に針名がある。 この大小針地名や針綱など針に関わる移住者の痕跡かと考えられる。古文書解釈では発音が同一ならば同意味、と言うこともある。 それでもなお鳥眼的に見て伊木山も含めた“張”地名を多く残している地域が“大張(大榛)“に相応しく、 木曽川河岸に張り出している所の方がよりふさわしく思う。

[鵜沼‖GoogleMap3Dより]

[『日本三代実録』貞観8年(886)7月9日条]

各務郷は、地名から各務地区に比定。この各務郷は壬申の乱の功績により郡領となった。 各務勝(「勝」すぐるかばねの一つ)の本拠地か。 後世に各務氏の広野川事件*がある。また「各務村史」には長縄城址と長縄氏の記述がある。 大きく東西に伸びる長い山「長山、もしくは各務山」に長縄氏と各務氏との関りを注目したい。 この地には、式内社村国神社(祭神=石凝姥、火明命、村国男依、白山)がある。 寛永2 年(1625)「白山妙理三所権現」、慶安3 年(1650)11 月「白山権現」と記載され、天明元年(1781)に「村国白山宮」と初めて村国の名がみえる。 寛政10 年(1798)棟札には「村国神社白山大権現」とされている。
*【広野川事件】 古来、木曽川には地形上増水の洪水・氾濫による流路変更が多く、これもそれが引き金となった事件。 神護景雲3 年(769)に起きた洪水は葉栗・中島・海部の3郡、さらに国府と国分寺にも被害を及ぼした。 氾濫は前渡から岐南町・柳津辺りまで広範囲に起き、被害は尾西辺りまで広がった。 東大寺文書の研究によれば、貞観8 年(866)以前の広野河は美濃側に向いていた。 それを根拠に尾張側に有利な流路変更の許可を太政官から得て工事中、美濃国各務郡大領各務吉雄・厚見郡大領各務吉宗等が 兵700 人余を率いて河口を襲い死傷者を出した。この事件は多くの説があるが、海老沢和子氏の研究は注目したい。

[伝蘇我倉山田石川麻呂の墓(各務原市蘇原宮塚町)]

那珂郷は、大宝 2 年(702)の美濃国戸籍に「中里」とある。 和銅6 年・神亀3 年(726)に1字から2字名への改訂命があり「中」から「那珂(なか)」となり、 以後『和名類聚抄』わみょうるいじゅしょうに「那珂」と記載されている。 古地図に那加村という地名が新加納宿場の北に位置するところにある。古地図の権現山上に「加那」と見える。 権現山の南面沿線上西に土山名の小山がありその東後方に柄(から)(加羅)山古墳がある。 この北西の山の北奥に桐野山浦地に古墳が多くあったという(女子大建設のため破壊)。 この地区に式内社飛鳥田神社(祭神は飛鳥田大神、各務郡では最高位)。 式内社加佐見・美神社(祭神は正4位下笠見田明神、伝蘇我倉山田石川麻呂、応神天皇)の2座がある。 加佐見山に3世紀前半の古墳がある。この並びの西方にといわれている所がある。 この方は奈良飛鳥の山田寺(やまだじ)で亡くなっている。

[伊波乃西神社(現岐阜市岩田西にある式内社)]

芥見郷 は現在は岐阜市芥見、岩田。元弘 3 年(1333)10 月9 日付の文章に「美濃国芥見の庄内岩滝郷」の地名が見える。 岩滝は芥見郷に含まれていた。ここを歩いてみると往時の賑わいが感じられる。 伝日子坐ひこいます皇子の墓が隣接する。この墓から伊吹山頂が見える。 日子坐皇子は功績が多く国土開発の神と讃えられ、3 国の持主・真の大国主命と伝えられている。 那加地区に加佐見山東の小山に市(いち)隼(はや)雄(おの)命(みこと)(従5位下市隼雄明神)の墓がある。 この方は日子坐の系譜で、岐阜市の橿(かし)森(もり)神社の祭神である。那加郷や芥見郷は古代の大王級の痕跡を知る喜びがある。

[御井神社(現各務原市三井町にある式内社)]

[旧東山道(各務原市鵜沼古市場)]

三井郷は、式内社御井神社の一帯が比定地。享保9 年(1724)の棟札に「濃州各務郡式内三井神社」と見える。 旧三井村の北西の稲羽西の旧更木・中屋地区総鎮守的な位置づけの御井神社(祭神は木俣神、住吉大神、国底立尊)。 往時三井山の山頂にあったが、天文年間に三井弥市郎が築いた城址がある。この地は井堰名が多い。

駅家郷は、大化に置くことを決め大宝で確立した。諸道30 里毎1 駅。馬6 疋基準。 各美評汚奴麻里内で現在の鵜沼南町・鵜沼古市場町を中心にした一帯の地区。 東山道の公的交通施設である各務(美)駅は流布本系・延喜兵部省式駅伝馬条に駅馬6疋配置とある。 鵜沼を汚奴麻・宇留間・売間などとも記し、中世の鵜沼の庄域であった。 鵜沼の初見は、藤原宮址出土木簡に文武天皇3 年(699)に「表:己亥年9 月三野国各□□」「裏:汚奴麻里五百木部加西□□」。 後に一条兼良の「藤川の記」や源茂之の「後拾遺集」に宇留間市とある。木曽川河岸地点として栄えたところといえる。 神護景雲3年(769)9 月8 日条・鵜沼川で大洪水があった。承久3 年(1221)6 月「鵜沼渡」「池瀬=伊木ケ瀬のこと」「板橋=現小伊木」とある。 この宇留間市は現在の鵜沼古市場町(旧鵜沼村古市場)と比定されている。 このあたりは木曽川の影響を受けやすい地域である。

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