零戦と各務原/ゼロ戦の秘話と各務原
(本地名文化研究会副会長)松尾 裕
このページは、本講演から、当編集部が独自に作成したものです。
◆ゼロ戦とは
正式名称は零式艦上戦闘機。
制式採用された1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、その下2桁が「00」であることから「零式(れいしき)」とつけられた、
日中戦争から第二次世界大戦期における日本海軍の主力艦上戦闘機である。
当時は戦闘機の名称は一般には知らされておらず、「ゼロ戦」という呼称で知られるようになったのは、
昭和19年の朝日新聞のルビ付きの記事以降といわれている。
晩年の堀越二郎氏
(三菱重工業の企業博物館より)
開発は三菱重工業。
当初は三菱での製造が主力だったが、次第に中島飛行場での生産が増え、最終的には総生産数1万数百機の6割以上が中島飛行機で製造された。
世界有数の飛行機メーカーだった中島飛行機は、戦後すぐに解体されたため余り知られていないが、その後に引き継がれたのが
富士重工、プリンス自動車(日産に吸収)、マキタなどと聞けば誰しもご存じだろう。
こうした三菱や中島をはじめとした企業で、戦闘機開発に携わった技術陣が
戦後の自動車、新幹線、航空機、ロケット開発等を支えてきたと云っても過言ではない。
設計は、アニメ「風立ちぬ」を持ち出すまでもなく有名な堀越二郎氏。
戦後、彼はYS−11の開発に参加。中日本重工業(三菱重工業分割後の新会社)を退社後は、東京大学の宇宙航空研究所講師、
防衛大学校教授、日本大学生産工学部教授として多くの技術者を育てた。
◆ゼロ戦派生型一覧
型式 | 記号 | 発動機 | 初号機完成年月 | 生産数 (三菱) |
十二試艦戦 | A6M1 | 三菱瑞星 | 1939年3月 | 2 |
零式艦戦11型 | A6M2 | 中島栄 |
1939年12月 | 64 |
零式艦戦21型 | A6M2 | 中島栄 |
1940年?月 | 740 |
零式艦戦32型 | A6M3 | 中島栄 |
1941年7月 | 343 |
零式艦戦22型 | A6M3 | 中島栄 |
1942年 秋 | 560 |
零式艦戦52型 | A6M5 | 中島栄 |
1943年 夏 | 747 |
零式艦戦52型甲 | A6M5a | 中島栄 |
1943年 秋 | 391 |
零式艦戦52型乙 | A6M5b | 中島栄 |
1944年4月 | 470 |
零式艦戦52型丙 | A6M5c | 中島栄 |
1944年9月 | 93 |
零式艦戦53型丙 | A6M6c | 中島栄 |
1944年 末 | 1 |
零式艦戦63型 | A6M7 | 中島栄 |
1945年5月より生産 | ? |
零式艦戦64型 | A6M8c | 三菱金星 |
1945年4月 | 2 |
◆三菱重工 名古屋航空宇宙システム製作所史料室
零戦の復元機を始め、戦前から現在に至るまで航空・宇宙に関する資料が展示されている、三菱重工業の企業博物館。
- ◎所在地
- 〒480-0293 愛知県西春日井郡豊山町豊場1
- 県営名古屋空港(小牧空港)に隣接
- ◎開館日と開館時間
- 毎週月、木曜日 9時00分〜15時00分
見学は予約が必要(ただし、工場休日の場合は休館)
- ◎入場料
- 入場料、駐車場共に無料
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◆各務原飛行場とは
濃尾平野北部に位置し、標高は30m〜60m、東西約10km、南北約5km、面積約1900haの広大な各務原台地。
明治以後は、1879年に手付かずの原野を利用して、陸軍の演習場が開設された。その後、
1914年(大正4)に陸軍が鵜沼・那加などの村人を動員 して各務原飛行場の整地を開始し、1917年(大正6)6月に陸軍各務原飛行場が完成。、
翌1918年、所沢の航空第二大隊がここに移 転した。
1944年(昭和19)末頃から本格化した米軍の日本本土空襲は、軍事施設・軍需工場、そして都市を標的
とした。空襲、すなわち戦略爆撃により 200 箇所以上の都市が被災したと言われている。
この戦争では航空戦術が重んじられ、制空権獲得のために敵国の飛行関連施設を優先して空爆した。各務
原飛行場の周辺には軍事施設や軍需工場も集中していたことから、岐阜県内では真っ先に標的となった。県
内で唯一、1t 爆弾等、焼夷弾以外の投下が行なわれた事実からも、各務原は近郊と比べて優先順位の高い攻
撃目標になっていたことがわかる。
◆ゼロ戦を牛車で運んだって本当 !?
実際、ゼロ戦の試作機が名古屋の三菱重工業大江工場から各務原飛行場まで牛車で運ばれている。
名古屋の市街地は兎も角、郊外から各務原までの狭い悪路をトラックで運ぶ事は、その振動に機体が耐えられないことから無理だった。
鉄道に於いてもトンネルがネックだったようだ。
後に工場の対岸に飛行場が造られ大型の専用船で運ばれるようになったが、それまで試作機は牛車で運ばれた。
この当時、大江工場は群馬の中島飛行機太田工場と並んで国内最大の飛行機生産施設であったが、どちらも付設の飛行場をもっていなかった。

【牛車でゼロ戦を運ぶイメージ図】(三菱重工 名古屋航空宇宙システム製作所史料室)
名古屋市港区の大江から市内を通って各務原までの48kmの道程は、かっての木曽街道(旧41号線、現在の県道102号線)と
中山道(旧21号線)を経由していた。それは、近代兵器と牛というアンバランスをどこか象徴しているようでもある。
コースは順に
大江工場→金山→鶴舞→新栄→布池→大曽根→上飯田→三階橋→水分橋→春日井→小牧→犬山→犬山橋→鵜沼→各務原飛行場
又、初期に活躍した九六式陸上攻撃機が小牧から扶桑(小渕)にでて、木曽川を団平舟や鵜飼舟などで各務原(小山)へ渡ったことで知られている。
◆ゼロ戦の凄さと運命
ゼロ戦といえば、誰もがみんな知っていると言ってもいい程に有名で、しかも人気があってファンも多い。
それは大戦緒戦での活躍、一対一の格闘戦、ドッグファイトでの強さにあったと思われる。
下のスペック表(上6欄)でもゼロ戦が勝っており、加えて運動性能も優れていたといわれている。
又、照準器が望遠鏡タイプからミラー式(光像式)になったのは、このゼロ戦が日本機では最初で、これによって覗き込まなくても照準が合わせられるようになった。
名称 | 所属 | 年次 製造 | 発動機 (馬力) |
最高 速度 (km/h) | 航続 距離 (km) | 武装 (口径mm) | 上昇 限度 (m) | 生産数 |
|
九六式艦上戦闘機 | 日本海軍 | 1936 三菱 | 1130 |
451 | 1200 | 7.7×2 | | 1094 |
九七式戦闘機 | 日本陸軍 | 1937 中島 | 650 |
460 | 800 | 7.7×4 | 10000 | 3386 |
F4F艦上戦闘機 ワイルドキャット | 米国海軍 | 1940 グラマン | 1200 |
515 | 1240 | 12.7×6 | | 7722 |
P40戦闘機 ウォーホーク | 米国陸軍 | 1940 カーチス | 1150 |
583 | 1046 | 12.7×6 | 8039 | 13738 |
零式艦上戦闘機 ゼロ戦 | 日本海軍 | 1940 三菱 | 1130 |
569 | 2200 3350* | 7.7×2 20×2 | 11740 | 10430 |
一式戦闘機 隼(はやぶさ) | 日本陸軍 | 1941 中島 | 1150 |
548 | 1620 3000* | 12.7×2 | 11750 | 5700 |
|
F4U艦上戦闘機 コルセア | 米国海軍 | 1942 C.ヴォート | 2100 |
717 | 1000 | 12.7×6 | 12650 | 12571 |
二式戦闘機 鍾馗(しょうき) | 日本陸軍 | 1942 中島 | 1500 |
615 | 1600* | 12.7×4 | 10820 | 1225 |
P51戦闘機 マスタング | 米国陸軍 | 1942 Nアメリカン | 1490 |
703 | 1530 | 12.7×6 | 12770 | 16766 |
三式戦闘機 飛燕(ひえん) | 日本陸軍 | 1942 川崎 | 1175 (液冷) |
590 | 1200 | 12.7×4 | | 約3000 |
P47戦闘機 サンダーボルト | 米国陸軍 | 1943 リパブリック | 2540 |
697 | 1657 3060* | 12.8×8 | 12500 | 15660 |
四式戦闘機 疾風(はやて) | 日本陸軍 | 1944 中島 | 2000 |
655 | 1400 2500* | 20×2 12.7×2 | 12400 | 約3500 |
*増槽時の航続距離
その後、アメリカ軍は1942年にアクタン島に不時着した零戦をほぼ無傷で確保することに成功し、徹底的に研究した。
その結果、旋回性能、回頭性能、航続性能に優れているが、高速時の横転性能や急降下性能に問題があることが明らかになり、
対ゼロ戦への戦術が確立されて以降、次第に劣勢になっていったと云われている。
(下図は運動性能を3軸で捉えたものだが、仮に、これらを数値化したデータが比較できたとしても、それぞれの速度にマッチングした
パイロットとの相性抜きには総合的な判断は難しい)

時代は既に低速格闘から高速制空に移行しており、P40相手すら真面に戦ってもゼロ戦は敗れたのではないかという説もある。
実際、華々しい活躍を経験してきた古参のパイロットから、高速が故に不評であった後の優秀機「鍾馗」や「疾風」を自在に乗りこなすことが
できていれば、「特攻」一辺倒の戦術に異議を唱える空気が少しは吹いたかもしれない。
ゼロ戦の後継機は終戦間際でテスト機で終わっている。「改造はできても改良ができない」という皮肉もある。
ゼロ戦の最大の欠点は改良の余地を残さなかったことと量産を考慮しなかったことだともいわれる。
しかし、一時期にせよ、大空を自在に飛び回り、多くの戦果を挙げてきたことは紛れもない事実なのだ。
そして、今尚、多くのゼロ戦ファンがいることも・・・。
◆平成の零戦

F-2支援戦闘機(出典:航空自衛隊/岐阜基地HPギャラリー)
ロッキード・マーティン社のF-16多用途戦闘機をベースとした国産戦闘機(三菱重工業‖開発期間1988〜2000年)。
戦闘機としては世界最高レベルの対艦攻撃能力と対空能力を兼備し、「戦闘攻撃機」に区分されるが、
自衛隊では、あくまでも「支援戦闘機」なのである。公式愛称ではないが、ファンの間では「平成の零戦」と呼ばれている。
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