日本人のルーツとマンモスの絶滅
(立命館大学名誉教授) 早川 清
このページは、本講演から、当編集部が独自に作成したものです。
◆ヒトは、いつ、どこで、誕生したのか
かって、人類の祖先の誕生は、最古の猿人の化石として発見されたアウストラロピテクス属アファレンシス(アファール猿人)、
アルディピテクス属ラミドゥス(ラミドゥス猿人)などと時代はどんどん遡り、新生代/新第三紀/鮮新世の400〜500万年前とされてきたが、
2,000年代に入って、アフリカ中央部のチャドで更に古い600〜700万年前(鮮新世の前、中新世)の地層から発見された
サヘラントロプス・チャデンシス(トゥーマイ猿人)で更に更新した。
(世界史の教科書なども人類の出現年代は約700万年前とされるようになった。)
しかし、進化においてチンパンジーと分岐した時期とも重なることから、分岐の前ではないかとか、脚の化石や足跡化石は見つかっていないため、
直立二足歩行に疑問の声もあり、不明な点も多い。
ただ、これまでの化石人類の発見がアフリカ東部に集中していたこともあり、中央部の砂漠からとは当時としては驚きであった。
今年に入ってアウストラロピテクス属の新種が発見され、デイレメダと名づけられたが、こうした猿人の化石は、全ての種で全身全てが発見されて
いる訳ではないので、今後の発見によっては属の分類も大きく変わる可能性もある。
図1.新生代第四紀の地質時代区分
現代人(ホモ・サピエンス)の起源については、猿人から原人、旧人と連続して進化してきたと云う説には否定的で、
DNA解析の進化に伴い、20万年前にアフリカで現在のホモ・サピエンスの直系の祖先が誕生したとする説が有力となっている。
図2.猿人の進化系統図
3万年前に絶滅したとされるネアンデルタール人も、このDNA解析で直系の祖先でないことが証明されたが、その絶滅の原因は
謎に包まれている。
ヨーロッパ人の祖先とされるクロマニヨン人とは生存時期が重複し、実際、イスラエルで共存していた痕跡が発見されている。
2010年には、現代人の中にネアンデルタール人の遺伝子が1.4%含まれていると云う研究結果が発表され、2014年には
その混血時期は約6万年前とされた。
白っぽい皮膚、金髪や赤毛、青い目などはネアンデルタール人から受け継いだ可能性が高いとされている。
一方で、頭部や腹部に攻撃を受けた痕跡のあるネアンデルタール人の化石も発見されており、クロマニヨン人による暴力的な駆逐が
絶滅の原因ではないかとも云われている。
又、居住域がヨーロッパに集中していたことから、4万年前のイタリアを中心とした火山の噴火が原因とも云われている。
だが、同様の居住域をもつクロマニヨン人が何故を子孫を残せたかという疑問が残る。
シベリアで発見されたネアンデルタール人の兄弟種の化石から、その遺伝子の一部がポリネシア人に混入しているとの情報もある。
人類が衣服を着るようになったのはいつか
7万年前、インドネシアのトバ火山の大噴火で、劇的な寒冷化が6,000年続いた。その間生き延びたのは、ホモ属ではネアンデルタール人と
わずかな現代人の祖先だけだった。
現在、70億の人口を有する人類は、その個体数の割に遺伝的多様性が小さいと指摘され、実際、DNAの進化を逆算すると、7万年前には1万組以下のの夫婦
であったと解析された。こうして僅かな祖先が生き延びてきた極度に寒いこの時期に衣服を着るようになったと言われている。
これを裏付ける報告にヒトジラミの分化がある。
毛髪に寄宿するアタマジラミと衣服に寄宿するコロモジラミの2種に分化した時期が、ちょうど7万年前だという遺伝子研究の結果だ。
この7万年前というキーワードは、アフリカ単一起源説の出アフリカの時期と一致する。
暖かさを求めて、移動を開始したと考えられる。
◆日本人のルーツとは?日本人はどこからきたのか?
以前から日本人の祖先は南からの狩猟型の縄文人と東からの農耕型の弥生人に大別されてきた。
そして、弥生人が縄文人を北(アイヌ人)と南(沖縄人)に追いやったとされてきたが、
最近のDNA解析から混血が進んでいたことが判明している。
図3はミトコンドリアDNA(mtDNA)変異部の型区分(ハプログループ)の系統図。(日本人にない型は一部省略)
図3.ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループの系統図
白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばる)で発掘された人骨を分析した結果、_ M7a(M7の派生)の系統であることが判った。
これは縄文人に多い型で、現在の日本人での割合は、沖縄(23%)、本州(7%)北海道アイヌ(16%)となっている。
因みに、日本人の約3分の1が_ D4_で最も多いとされている
図4のように関東地方の縄文遺跡(56体)と九州北部の弥生遺跡(78体)を比較すると、縄文は_ F_や南方経由の_ M_が多く、
弥生は_ Z_や北方経由の_ A_が多い。そして、現代人はそのいずれも平均的な比率であることからも混血を裏付ける。
図4.弥生人、縄文人、現代人に見られるミトコンドリアDNAのハプログループの割合
(『日本人になった祖先たち』篠田謙一著より引用、改変)
現在のところ、アフリカに端を発した_ L3_は南方ルートから東南アジアを経由した_ M_と、
中央アジアから中国、朝鮮経由の_ B、D、F、G_と、
北方ルートからの_ A_の三方から日本に入ったされている。
ただ、Dに関してはチベット、日本で多数みられるのに、中国、朝鮮では皆無に近い点が不思議ではある。
近年、母系の分析を補完するため、Y染色体による父系の解析も進んできている。
一例として、
『南米のコロンビア人を調査したところ、mtDNAは、ほぼ全ての人がモンゴロイド系(黄色人種)の特徴を持っていたが、
Y染色体はほぼ全てがコーカソイド(白色人種)特にスペイン人に特徴的なタイプのみであった。
逆に東ヨーロッパの諸民族のmtDNAはほぼ全てコーカソイド系であったが、Y染色体及び核DNAにはモンゴロイド系の特徴を持っている人々が
少なからず発見された。』
(『DNA』J・D・ワトソン/B・アンドリュー著)
母系の流れと異なるところは何処か侵略の足跡を窺わせる。
いずれにしても、単一民族と云われてきた日本人だが、此れほど多様性に富んだmtDNA集団は世界的にも少ない。
一つの細胞に一つしかない核のDNAに比べ、mtDNAは1000個以上あり、その情報量(塩基数)は16000程と極端に少なく、
変異速度も速いため、長い過去の分析に適していた。
一方、Y染色体は5100万塩基と膨大なのだが(DNA全体30億に比べれば少ない)、ジェノグラフィック・プロジェクトの進展に伴い
(2015年現在参加者数が70万人を突破)急速に進んでいる。
今後の各地の発掘や、これらの解析に期待したい。
◆ヒトはマンモスとどのように関わりを持ってきたのか?
ヒトがマンモスと同時代に生き、狩猟の対象としていた痕跡
- アメリカのアリゾナ州では、約1万2千年前のコロンビアマンモスの化石の骨の間から、石でできた槍の穂先が見つかっている。
- フランスのルフィニャック洞窟やペシュ・メルル洞窟には旧石器時代に描かれたとされるマンモスの洞窟壁画が残されている。
- 旧石器時代のドイツのゲナスドルフ遺跡からはマンモスを描いた石板が発見されている。
- ウクライナやポーランドではマンモスの骨で作られた住居跡が発掘されている。
- アメリカ合衆国のアリゾナ州からは、マンモスの化石の骨の間から、石でできた槍の穂先が見つかっている。
ケナガマンモス ( Mammuthus primigenius )
- 50万年〜1万年前までヨーロッパ、シベリア、中国、日本、北米に分布。アフリカゾウよりやや小柄
ショウカコウマンモス ( Mammuthus sungari )
- 3万4000年前に中国(内モンゴル)生息していた マンモスの最大種(体長 9.1m、背高 5m)
ステップマンモス ( Mammuthus trogontherii )
- 60〜30万年前、ヨーロッパに生息。ケナガマンモスの直系の祖先
インペリアルマンモス ( Mammuthus imperator )
寒冷地には今なおマンモスが生息可能な環境があるとされ、近代に古生物として認知される以前から目撃情報がある。
- 1580年:シベリアで山賊退治の騎士達が毛の生えた大きな象を目撃。
- 1889年:アラスカで体高6メートル、体長9メートルのマンモスを射殺。6本の牙を持っていたという。
- 1920年:シベリアのタイガ地帯で猟師が巨大な足跡と糞を発見、足跡を追ううちに巨大な牙と赤黒い毛を持つ象を発見。
【「wikipedia/マンモス」より】
戦時中、捕虜でシベリア送りとなったドイツのカメラマンが撮影したフィルムが、遺品の中から発見され、それがネットで公開され話題になった。
結局、英BBC放送が製作した教育番組のCGシーンを加工したものだったが、5、6秒の映像で如何にも本物っぽかった。
1万年前に絶滅したとされるその原因が諸説あり、謎に満ちているためか、人類の祖先が、彼らに救われた?からか、何故か人々に愛されている
マンモス。保存状態の良い死骸から採取された血液や、ほぼ解明されたというDNAや、新たにゾウから再生させる研究など、
いったい、この先、何をもたらしてくれるのだろうか。
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第34回 日本地名研究者大会 (平成27年5月30日〜31日) |
1日目 : 5月30日(土) / 大垣スイートピアセンター
360名の参加者を迎え、説田岐阜地名文化研究会会長の歓迎挨拶より開演
- 総合司会
- 山田 敏弘(岐阜大学教授)
- 来賓挨拶
- 小川 敏(大垣市長)
- 中村 茂(川崎市市民文化室長)
◇基調講演
- 「地名研究の指針」
- 谷川 彰英 氏(日本地名研究所所長)
◇第1部『美濃の地名と文化』
- コーディネーター
- 鏡味 明克 氏(三重大学名誉教授)
- 「水と踊りと城下町・郡上八幡」
- 馬渕 旻修 氏(郡上の地名を考える会会長)
- 「輪中の地名と風土」」
- 伊藤 憲司 氏(岐阜県地理学会理事)
=昼食=
◇第2部『美濃の街道と合戦』
- コーディネーター
- 丸山 幸太郎 氏(岐阜女子大学教授)
- 「芭蕉と大垣」
- 相馬 みさ子 氏(元奥の細道むすびの地記念館長)
- 「美濃路・大垣宿」
- 横幕 孜 氏(元大垣市史編纂室専門員)
- 「関ヶ原合戦と大垣」
- 清水 進 氏(元大垣市史編纂室長)
◇記念講演
- 「古代の三閑」
- 井上 辰雄 氏(筑波大学名誉教授)
◇レセプション(夜)
- シンポジュウム
- 司会‖谷川 彰英 氏(日本地名研究所所長)
2日目 : 5月31日(日) / 関ヶ原探訪
◇午前
- 大垣駅〜南宮大社〜壬申古跡〜不破の関〜関ヶ原ふれあいセンター
◇午後
- 講演「ふたつの関ヶ原」
- 草野 道雄 氏(関ヶ原歴史資料館長)
- 関ヶ原町歴史民俗資料館見学〜陣場野〜笹尾山〜長政の開戦場〜大垣駅
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