Lecture

UpDate/2016/3/2


 =MENU(2015)=

  1. 各務原という地名
  2. 月に地名をつけた日本人
  3. 十万年前の川の跡
  4. 日本人のルーツ
  5. 零戦と各務原
  6. 災害立国日本
  7. 各務原から展開する古代地名
  8. 私が巡った外国の地名
  9. あの世の地名
  10. 本美濃紙のお話し
  11. 「がんどばぼち」と木遣音頭
  12. 食・中山道・かかみがはら
  13. 第34回全国地名研究者大会
第2回定例講演
(平成27年6月20日)


T.十万年前の川の跡と「ウトウ」地名
(愛知県地名文化研究会会長)中根 洋治


◆十万年前の川の跡

 航空写真を見ると、各務原市北部の山脈は同じ方向を向いており、日本の代表的な地球の皺といえる。

【図1.各務原市周辺の地形図(国土地理院「基盤地図情報」】

 10万〜5万年前、木曽川は今よりずっと高い所を流れており、美濃加茂市から山県市の方へ流れ、加茂野町の台地、 鳥羽川、伊自良川へと流れていた(図2)。 このコースは、根尾谷断層に沿っている。この根尾谷断層は3本あり、3千年から1万年ごとに起きる地震で、その北側が絶えず沈下している。
 深瀬地区は断層の北側で、その名の通り泥深い地域である。 ボーリング結果の深い方から順に、粘土交じり砂利―粘土―御嶽山火山灰―植物混じり泥―丸太で、その上に畑や田んぼがある。 泥の深さは約40mある。川が流れていた跡は、泥や植物・丸太が流れ込んでいた湖だったのだ。 断層の南側は、郵便局から南で栗石層が厚さ10m以上堆積し、これを採掘して粉々にしてコンクリートの材料に使っている。

【図2. 岐阜県旧河道図(中根作成)】

 現在、鳥羽川と伊自良川の間に峠がある。 峠に当たる梅原字申子は南の沢から土石が流れて堆積した所なので、埋まってしまった土地が「ウメハラ」で、土砂が流れサルことから「サルコ」なのだ。 畑の下には、南の沢から流れてきた「ココ石」と呼ばれる砂岩の礫が混じっている。 井戸掘りした家で地質図を見せてもらったら、下の方に砂利が混じっていた。だから川が流れていたといえる。 峠の東側に「荒瀬(こわせ)大明神」があり、山県市が建てた説明版には「昔ここは速い瀬となっていたので、船が難破した。 船の安全を祈って明神様を祀った」というように書いてある。 太郎丸の北側の「北浦」、西深瀬の北方の「東浦」、梅原の西方の「山ケ崎」、これらは、全て、湖があったことを表わす。

【図3.各務原市の苧ヶ瀬池を通る10万年前の川(中根作成)】

 各務原市にも、10万〜5万年前に城山―葦池―苧ヶ瀬池―大嶋から西へ流れる川があった。 これも13万から5万年前にかけて堆積した「洪積台地」の上なので、10万年前の川と呼ぶ。 この旧河道の絵が苧ヶ瀬池の店屋に掲げてあった。図3は苧ヶ瀬池を通る川の跡を模式図にしたものである。 須衛町は古代の焼き物産地だったが、その粘土はこの川が運んできたものといえる。 大嶋は栗石が堆積しているそうだが、これも芥見の方からも流れてきたと考えられる。 川の跡に関する地名は、東島と寺島くらいしか見当たらない。寺島は、図2を見ると、島の形になっている。各務原台地の西端に那珂「浜見町」がある。 ここから浜が見えていた時代があったのであろうか。同様に、本巣市の船来山は船が来ていたと考えられる。 現在の上磯・下磯付近辺りで、船来山の麓は標高23mくらいあり、ここまで海が来ていた年代は13万年前となる。実際、船来山には「船つなぎ石」がある。
 私の地元である岡崎市細川町には、標高23m付近の矢作川沿いに、潮止め弁天があり、対岸の豊田市渡刈町には、「潮指し大明神」がある。 潮差し大明神は現在「糟目春日大社」になっている。海がその辺りまで来ていた証拠といえる。歴史や地名を調べるには、川の跡がポイントとなる。

【図4. 海の高さの変化図】

 図4は海の高さの変化を説明したもの。13万年前に海が各務原市まで押し寄せ、そこへ大洪水が来て各務原台地が堆積した。 5万年前くらいから海の高さが低くなり、木曽川泥流が押し寄せ、さらにどんどん木曽川が低くなり、鵜沼の低地に渦を巻く流れができた。 その後、さらに海が今より130mも低くなって、木曽川沿いに深い谷が出来き、木曽川が運んできた土砂が堆積したと考えられる。 その後、約6千年前の縄文海進で海がまた高くなり、木曽川があっち、こっちに乱流状態となり、細かい砂や土砂が積もって田んぼや畑の土が出来た。
 縄文海進から現在までに、岡崎市では9mほど積もったが、笠松辺りでは15m積もったとみられている。
 十万年前の同様な川の跡として、長良川が武儀川の広見と池尻で繋がり、芥見から各務原の大嶋へ、さらに岐阜市日野から長森の方への南下がある。 このような古い川の跡には、栗石が詰まっていることが参考になる。

◆各地の「ウトウ」地名について

 各地に「ウトウ」といわれる地名がある。「ウトウ」という場所は峠に多いが、U字形の低い地形を表す。

@烏頭(うとう)

【写真1.烏頭坂】

 岐阜県関ヶ原町に「烏頭坂」がある。写真1からもU字形の谷に道があることが分かる。 名神高速道路が出来るまでここは両側が高く林になった山道で、地元では、その長い登り坂の形状が鵜の首のように曲がっていることから、 その名前がついたと言われているそうだ。 しかし、名神高速道は写真の場所から50mほど坂を上った所にあり、そこから高低差50m程、U字形の谷を上ると、 西側が平坦なのです。つまり、「烏頭坂」という坂道がU字形をしている。これが地名の謂われだと思う。
 また、ここには「九里半街道」という標柱がある。 「9里半街道」とは、三河木綿が桑名へ集められ、そこから川舟により「濃州三湊(烏江・船着・栗笠)」で陸揚げされ、 琵琶湖まで陸路を9里半運搬された道のことである。木綿以外の物資も「9里半廻し」とも呼ばれた陸路を運ばれ、 また船で大津径由京都へ運ばれたといわれる。この「9里半街道」も「烏頭坂」を通ったことになり、道中「烏頭坂」は最大の急坂になる。 そのため、重い荷物を運ぶ場合は烏頭坂を避けて関ヶ原と柏原の間にある今須へ向かった。 もっと重い京都の方広寺や伏見城の材木などは、相川の垂井町表佐(おさ)まで船で運ばれ、そこから陸路を琵琶湖まで運ばれたそうである。
 また、関ヶ原の戦の時、西軍の島津軍は敗戦の状況となると、必死の逃亡を企て、「烏頭坂」を逃げた。島津豊久は主君義弘を逃がす為、殿(しんがり) を努め、戦死したという。その墓が道路左上にある。

A善知鳥(うとう)

【写真2.善知鳥峠】

 国道153号の長野県辰野町と塩尻市の間にある峠。両側が山になっている(写真2)。 辰野町の中央線トンネル入り口の標高は870mで、峠は889m、塩尻市へ入ると742mになって日本海側の信濃川へ水は流れている。 塩尻市から松本平という平地は湖だったらしい。 塩尻は日本海側の塩の終点ということであろう。善知鳥峠から南側は太平洋側の塩が届いたはずである。峠を越えることは難儀だからそう思う。 「ウトウ」という古代からの言葉に、鳥の「善知鳥」という漢字を借りてきたものだ。

B葡萄(ぶどう)

【写真3.葡萄峠】

 国道7号を新潟方面から山形方面へ向かい、「葡萄トンネル」を越えると「葡萄」という集落に出る。 トンネル手前の標高は約180m、トンネル上は220m、出口は170m。そのトンネルを抜けてすぐに南へ入る旧道がある。 その旧道を進むと標高約260mの「葡萄峠」がある。「葡萄」は、「ウトウ」のことだそうである。 同行の村上市に住む長谷川勲さんに聞くと、この辺一帯を「葡萄峠」というそうだ。 次に一風変わった地形が現れた。高さは約40mの角礫岩、つまり火山灰の中に角張った溶岩の破片が混じった岩に見えた。 幾つかの突き出た垂直の煙突が立っているような景色である。 これは「明神岩」とされ、岩の麓に「式内 漆山神社 矢葺神社」と額に掲げられた社がある。 別の案内板には「矢吹神社」ともある。いずれも「ヤブキ」と呼ぶ。 「ヤ」は「岩」のことで、豊田市足助地区「岩神」を「やがみ」、長久手市岩作(やざこ)というようにいう。「フキ」は崖地名の一つ。

Cうとう峠

【写真4.うとう峠】

中山道を美濃太田宿から鵜沼宿へ出る途中にある峠である。 峠の西側は左右に山は無いが、東側へ降りていく谷は全くのU字形の谷地形が続く。 中山道は、木曽川沿いを進むと崖があり遠回りである。「うとう峠」は東西の麓は標高約50mであり、峠は約130mの高低差はあるが近道なのでここを通った。
 峠の西側には「小田原宿喜右ヱ門菩提」と刻まれた地蔵さん(供養塔)がある。 盗賊に襲われ殺害されたらしい。またその次には、一里塚跡もある。そしてここも芭蕉が通った。皇女和宮も通った。

D宇頭(うとう)

【写真5.宇頭町】

国道1号を岡崎市の西端に進むと、宇頭町がある。 ここは平野部であるが、水田地帯から碧海台地へ移る境界付近の町名である。 宇頭町にはU字形の細長い谷が700mほど続いていた。この谷が「宇頭町」の名前の起こりであろう。 幅は50mくらいから上流に向かって徐々に狭くなっていく。この谷にあった水田は泥深く、田植えは田舟を必要とした。 今ではこの谷も埋め立てられ、マンションや住宅が出来ている。谷の位置は、変電所と宇頭神社の西側を南北に貫き、碧海台地に食い込んでいた。 名鉄本線の宇頭駅から30mくらい東を横切っていた。今でもその名残りは分かる。

E有洞(うとう)

【写真6.有洞町】

 旧足助町の町から南東へ2qほど行ったU字形の谷にある13戸の集落で、今は9戸に減っている。U字形の谷は真っすぐ巴川へ落ちこんでいる。 巴川沿いは安実京(あじきょう)という所で、そこから綾渡(あやど)の平勝寺に向かう旧道が谷の東側を登っていた。 その道沿いには石造の観音さまが連続している。一方では、谷の一番高い家から足助の町へ通ずる旧道もあった。 その道は、山ケ谷(やまがい)字鶏足(けっそく)の方から流れ落ちる沢が国道420号を潜る橋よりすぐ南側になる。
 現在の道は、安実京から登る車道があるが非常に狭い。 一ノ谷、真弓城の方から登る急勾配の道からは、東海自然歩道と重なって南へ曲がり、一旦上ってから急勾配で下っていく。 有洞には全国10位の太さになる椹(さわら)の大木がある。桧によく似た素性の良い木で、幹周り670pである。
 以上のことから、「ウトウ」という地形は、U字形の凹んだ場所に使われているといえる。 各務原市鵜沼、各地にある「宇津」などの「ウ」は、凹んだ低い地形を表すようである。


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