月に地名をつけた日本人
(本地名文化研究会会長) 可児 幸彦
このページは、本講演から、当編集部が独自に作成したものです。
◆クレーター・アサダ
クレーターアサダは、月面の北緯7度3分、東経49度9分にある直径12キロメートルのクレーターである。
麻田剛立の功績を称え、1976年に国際天文学連合(IAU)から承認された名称である。
【国際天文学連合(IAU)】
1919年に結成された国際科学会議の下部組織で64の国と一万人超の天文学者等で構成されている。
テーマ別に90のワーキンググループがあり、3年に一度開かれる総会が1997年、京都で開かれている。
IAUの命名委員会は、月の地形の命名に関して、次のように取り決めている。
「世界的に選ばれた、人類の文化と知識への貢献に因むもの」特に人名の場合
「命名される人物は、国際的にも評価されている人物でなければならない」
という特記事項がある。
◆江戸時代の算術・天文学
【三内丸山遺跡】再建された大型竪穴住居内部
日本には、古来から算術があったとされている。縄文時代から算術があったかもしれないと思わせる痕跡が
富山の不動堂遺跡や青森の三内丸山遺跡などの大型竪穴式住居跡にみられる。
その一つに柱と柱の長さ(スパン)が 175cm、210cm、245cm、280cm、420cm(12倍)と全て35cmの倍数であることが上げられる。
この35cmの基準(縄文尺)は不動堂を南端とした東北地方の大型住居跡に共通して見られる。
このことから、かなりの広範囲の人たちが共通の基準を持ち、12まで数を認識できていたといえる。
しかも、この「12」が注目されるのは「同じ長さのものを12本用意して、3本、4本、5本に分けて三角形を作れば直角が得られる」からなのだ。
実際、柱跡から十分な直交が得られている。
そんな算術がまばゆいほど輝いた時期が「麻田剛立」が生まれた江戸時代なのだ。
そこで、どのように算術が輝いていったか、江戸初期の頃に活躍した算術家や歴学者を通して見てみよう。
『割算書』玉川大学教育博物館所蔵
【毛利重能】
江戸初期に和算の教本として広く読まれた『割算書』の著者であることから「和算の祖」といわれている。
生まれは石見国長谷村(島根県)で、豊臣秀吉に仕え、明に算術留学している。
秀吉亡き後は、あの大阪の陣で真田信繁以上に勇猛を馳せた毛利勝永に仕えたとも言われているが、この辺りはかなり怪しい。
洛陽二条京極の辺で算術道場を開いた頃は、池田輝政の家臣であったようでる
*1)。
元々、生没不明というぐらい資料が乏しく、謎が多い人物である。
『割算書』の名前も後世になって付けられた書名で、当時どのように呼ばれていたかもわからない
*2)。
この書の
跋文(後書き)に自ら京都で「割算天下一指南」と称して弟子を募集している。
それが功を奏した訳ではないだろうが、多くの弟子が集まり、実際、優秀な弟子を輩出している。
中でも「毛利の三子」と呼ばれた吉田光由、今村知商、高原吉種は有名である。
今村知商………………「円理*3)」の研究の先駆者の一人
高原吉種………………極初期の関孝和の師とされている人物
*1) | 吉田・角倉家に伝わる『角倉源流系図稿』の吉田光由の条より |
*2) | 元和8年(1622)の刊行で、国内に数冊が現存するが、すべて表紙がなく、もとの書名はわからない。
昭和2年に与謝野寛らによって『割算書』と仮に命名された。 |
*3) | 「円理」 |
| 円や円弧などを求めることから始まり、後に円の面積、球や円錐の体積、無限級数、三角関数など和算の一分野として発展する。 |
『塵劫記』寛永8年(1631)刊(東京国立博物館所蔵)
【吉田光由】
(1598〜1673)
前述の毛利重能の弟子で、何といっても『
塵劫記』の著者として有名である。
この後の数学者に多大な影響を与えたばかりでなく、民衆の間でも評判となり、一家に一冊と言われる程の大ベストセラーとなった教本なのだ。
そこには、数学パズル的難問も載せられており、遊び感覚で難問を競う「算額ブーム」を引き起こした。
それは、日本人の数学力を一気に高めた、正にまばゆいほどに輝いた江戸算術の始まりである。
一方で、その評判に比例して海賊版も多く出回ったので、光由は、他では真似できないような精巧なカラー刷りを出版した。
多色版を正確に合わせるためのトンボ(十字マーク)は、この時に発明されたものである。
また、川舟輸送で多大な経済発展に寄与し、自らも莫大な財を成した
角倉了以
が光由の外祖父であったことは余り知られていない。
自らの著作を自ら何度も出版できたのは、角倉一族の財力に支えられた一面もあったのかもしれない。

【関孝和の肖像画】(日本学士院所蔵)
【関孝和】
(1642?〜1708)
江戸期のみならず日本を代表する天才数学者。
当時の代数学は中国からの「天元術」によるもので、孝和も読んだであろう『塵劫記』も又、中国の『算法統宗』(1592年)をもとに編纂したものであった。
その天元術には一変数の高次方程式しか扱えない欠点があったので、孝和は「傍書法」という係数や記号を文字で表記する手法や
補助数を用いて解く「演段法」などを考案し多変数まで計算できるようにした。
こうした算木から転換した記号的代数学の体系は、のちに「点竄術(てんざんじゅつ)」と総称されるようになり、
ここに初めて日本独自の和算がスタートした。
孝和の研究が世界的な水準であった例として以下のようなものが上げられる。
・ベルヌーイより一年早くベルヌーイ級数を発見(現在は「関・ベルヌーイ級数」と呼ぶ)/『概括算法』(1712年)
・ライプニッツより早く行列式(文字消去の術)を導入/『解伏題の法』(1683年)
・高次方程式の近似解を得る解法(ホーナー法)ホーナーより一世紀早く発見
・円周率を表す近似分数として 355/113 を示した

【生誕350年記念切手】
(1992年発行)
好奇心旺盛な孝和は、天文学から暦学、測量学、「からくり」にまで関心をもち、その才能を遺憾なく発揮した。
孝和は主君綱豊(六代将軍徳川家宣)の命で新しい暦の作成に取り掛かるが、自らの算術の知識を活かして基礎から組み立てようとしたため
歴学のライバル渋川春海に先を越されてしまった。
蛇足だが、同時期、将軍に仕えた学者に新井白石がいる。文系で、しかも15歳年下の白石と特に親交があった記録はない。

【春海作地球儀(レプリカ)】(国立科学博物館所蔵)
【渋川春海】
(1639〜1715)
幕府にあって囲碁の家元四家の一つ安井家の長男として生まれた。
中国の授時歴
*)をもとに算出した日食予報が失敗。この失敗の原因が日本と中国の経度差にあることに気付いた春海は
日本初となる国産歴、
貞享暦を編纂。
これが認められ初代幕府天文方に任ぜられた。その後、本所(墨田区)に天文台の建設が認められる。この天文台は後に神田駿河台に移転した。
春海は日本初の地球儀を作ったことでも有名である。
また、春海の生涯を描いた小説『天地明察』が映画化されて話題にもなった。
*)「授時歴」
1280年、元のフビライ・ハーン(Qubilai)の時にイスラム歴を基に作られた中国の暦。
当時、1年を365.25日とされていたが、授時歴では365.2425日で、地球の公転周期との差はわずかに26秒であった。
それは、その300年後に西欧で制定されたグレゴリー歴に等しい正確さであった。
こうして江戸時代は算術が和算という日本独自の形で急速に進化した時期であり、同時にそれに合わせて歴学、天文学、測量術も発展していった時代なのである。
麻田剛立が遠く離れた九州の小藩に産声を上げたのはそんな頃であった。
【歴学の重要性】
現在のように、太陽を基準とした太陽暦が使われるようになったのは明治になってからである。それまでは、月を基準とした太陰暦が使われていた。
現代のような日付を知る手掛かりが少ない当時としては、月の満ち欠けが日付と合致している太陰暦は便利であった。
しかし、季節は太陽の周期で巡ってくる。月の見かけの周期は、一か月が29.53日なので、一年で凡そ11日短い。
そのため、何年かに一度、一か月(うるう月)増やして補正しなければならない。きっちり割り切れる訳ではないので、
うるう月を設けるタイミングをできるだけ正確に計算しなければならない。暦と季節のズレは農作物の収穫に大きく影響するため
歴の作成は国家の威信に関わる重要な事業なのだ。そうしたことから天体観測が進歩してきたのだが、それは飽くまでも暦を作るためでしかなかった。
月や太陽の周期に留まらず宇宙全体を研究する、一つの独立した天文学という学問が、当時は、まだなかった。その道筋をつくったのが剛立を中心としたグループ
「麻田学派」といえる。
◆「麻田 剛立」とは、どんな人物か
享保19年(1734)、豊後国
杵築藩(大分県杵築市)の儒学者綾部安正の四男として生まれ、
本名は綾部
妥彰といった。
幼少より天体に大変興味をもち、異常なほど観測に夢中であった。
5歳の頃、庭に竹筒を立てて、その影を一年間観測し続けた話は有名である。
16歳の時に、暦にない日食を予測して的中させているが、この時はまだ暦が間違いだと断じる程の自信はなかった。
宝暦12年(1762)、再びそのチャンスがやってきた。この満を持しての剛立の予測は周囲に広く知られることになる。
00歳 | 1734 | 綾部妥彰誕生 |
02歳 | 1736 | 父に抱かれて天体について問答 |
05歳 | 1739 | 庭に竹を立てて影を測定 |
06歳 | 1740 | 縁側の影を測定開始 |
16歳 | 1750 | 日食予測が的中 |
21歳 | 1755 | 宝暦暦施行 |
28歳 | 1762 | 暦にない翌年9月1日の日食を予報 |
29歳 | 1763 | 日食予報的中 |
34歳 | 1768 | 杵築藩主松平親貞の侍医となり江戸へ |
35歳 | 1769 | 藩主大阪城へ、剛立同行 |
36歳 | 1770 | 藩主の腹痛直し、嫉妬を買う |
38歳 | 1772 | 杵築を脱藩、大阪中井履軒宅滞在 |
39歳 | 1773 | 本町4丁目に自宅かまえる |
41歳 | 1775 | 日食観測で西洋式渾天儀をはじめて使う |
44歳 | 1778 | 反射望遠鏡で観測 日本最古の月面観測図を描く |
52歳 | 1786 | 8年前の日食予報が的中 |
53歳 | 1787 | 間重富、高橋至時入門 松平定信、老中首座に就く |
55歳 | 1789 | 天文宿を「先事館」と命名 |
61歳 | 1795 | 高橋至時、間重富に改暦の命令 |
64歳 | 1798 | 高橋至時、間重富による「寛政暦」施行 |
65歳 | 1799 | 65歳で没する |

そして翌年、実際に日食が起こると剛立の評判は藩内だけでなく関西にも届くこととなった。
その後、侍医として仕えることになった剛立は、藩主に同行して大阪に行っている。
この時、侍医の務めの傍ら天体観測を行っている。当時の大阪では天文学の塾こそなかったが、様々な分野における先端技術や研究が進んでいた。
日食の評判を聞きつけて集まった支援者等にも支えられ、充実した時期であったに違いない。
その後、藩主と共に杵築に戻った剛立は、同じ侍医仲間から妬まれ孤立していた。そして、何よりも天体観測が思うようにできないことが辛かった。
藩にお役御免を願い出ても聞き入れてもらえず、脱藩を決意する。
密かに藩を抜け出し、大阪に向かった剛立は、かねてより親交のあった中井竹山・履軒兄弟を頼り、
水哉館に身を寄せた。
ここで剛立は町医をしながら天文学の研究を始める。
【中井竹山】(1730〜1804)
懐徳堂四代目学主(教授)。中井履軒の二歳上の兄。弟の履軒とともに朱子学を学び、のち懐徳堂の黄金期を築いた。
老中松平定信が京坂に巡視したとき、その質問に応えて提出した竹山の
『草茅危言』は、後の寛政改革に大きな役割を果たしたとされている。
剛立はその時の様子や定信の政治家としての評価などを興味深く竹山に尋ねている。
|  【中井竹山の肖像画】 (玉川大学教育博物館所蔵)
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 【懐徳堂内部の再現CG】 (大阪大学懐徳堂研究センター)
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【懐徳堂】
享保 9 (1724) 年、三宅石庵の門人の豪商らの出資で船場尼ヶ崎 (大阪市中央区今橋) に設立した学問所。
その2年後には幕府官許の学問所となり、明治2(1869)年までの146年間存続した。
現在の大阪大学のルーツ。
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【中井履軒の肖像画】 (大阪大学懐徳堂研究センター)
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【中井履軒】(1732〜1817)
古典や経学の注釈の第一人者。
竹山が懐徳堂学主として活躍したのに対し、履軒は後に懐徳堂を離れて私塾水哉館を開き、そこで膨大な経学研究を残した。
剛立の人体との対照確認のための獣体解剖に立ち合い、それを基に『越爼弄筆』を著している。
そこには、彩色筆写した人体解剖図十五葉と、解説が加えられている。
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【水哉館の額】
「水哉館」の名称は、孔子がしばしば水を称えていたということに因む。 (大阪大学懐徳堂研究センター)
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 『越爼弄筆』(大阪大学懐徳堂研究センター)
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『越爼弄筆』中井履軒著(1773)
「越爼」とは、自分の本分を越えるという意味、「弄筆」とはたわむれに書くいう意味である。
本書は、本来麻田剛立によって執筆されるべきものであったのに、剛立が研究に忙しく著述の暇がなかったから、自ら分を越えて執筆したとの意が込められている。
履軒の実証的精神が漢学という枠をはるかに越えて、医学にまで及んでいたことを示す資料である。
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そして、剛立もまた、こうした医術の革新的な道を切り開いた一人でもあった。杉田玄白の『解体新書』が刊行されたのはこの翌年である。
やがて、医者としてもそれなりに知られるようになると履軒宅から独立して本町4丁目(中央区本町三丁目)に
居を構え、「麻田剛立」と名を改めることになる。
こうして本格的な天文塾がスタートした。剛立39歳の時である。
当時の研究者は閉鎖的で、弟子にも研究成果を漏らさないよう制限していたほどだが、剛立は全てにオープンだった。
いつしか剛立の下には多くの弟子が集まり「麻田学派」という先進的な研究グループとして全国に知られるようになっていった。
そのオープンな学風と絶えず観測結果を理論にフィードバックさせていくという研究スタイルが、全国各地に賛同者を増やし、
広域的な観測ネットワークができていった。
剛立は熱心に弟子らを指導し、共に観測、研究に没頭したが、全くといっていいほど著作を残さなかった。
そして、弟子らに自らの研究資料などを処分するよう言い残してこの世を去っている。
その理由は謎ではある。晩年の体力的な衰えが、もっと深めたい研究への焦りを生んだのか、
後進を託した優秀な弟子達の発想の足枷になることを嫌ったのかもしれない。
いずれにしても、剛立を知る手掛かりとなる資料は非常にに少ない。
剛立にはもう一人、若い頃からの友人で三浦梅園という思想家がいる。
【三浦梅園の肖像画】
「広報おおいた」1997年2月号
【三浦梅園】
(1723〜1789)
自然界の現象を「条理学」という独創的な思想で知られる自然哲学者で「豊後の三賢」の一人。
杵築藩領の国東郡富永村( 安岐町)の医者の家に次男として生まれ、早くに亡くなった長男に代わって三浦家を継いでいる。
医者をしながら、自らの研究が続けられた点は剛立と同じと云える。
その剛立の父、安正の下で儒学を学んでいる。富永村から杵築の城下まで日々、山道を通ったという。
共に探求心旺盛な二人が、その頃から出会っていたとしても不思議ではない。
剛立が大阪に出てからも二人の親交は、書簡を通して生涯続いた。
梅園にとって、剛立の天文学の知識や観測は、自身の自然哲学の検証に必要であったし、また、剛立にとっても、梅園の独創的な宇宙原理は
大いに刺激になった。
【剛立の月面のスケッチ】
(『月に名前を残した男』鹿毛敏夫 著より)
安永 6年(1778)、剛立はグレゴリー式反射望遠鏡を使って日本最古の月面観測図を描いた。
剛立から梅園に送られた書簡の中から、その時のスケッチが発見されている。(右図)
当時、剛立等が使用していたのは、倍率の低い屈折望遠鏡で、それより遥かに高倍率の西洋式の反射望遠鏡は、
希少で高価なため簡単に手に入れられるものではなかったが、
大阪で手広く商いをしていた弟子の一人が先生のためにとオランダ商人から手に入れてくれたのだった。
「懐徳堂」設立同様、学問に惜しみなく私財を提供する商人気質は、ここにもみられる。
もう一つ、剛立の観測でのエピソードとして、「月食の観測で月に映る地球の影から南極大陸の存在を知った」というもので、
何ともロマンのあるエピソードと云える。
天明 7年(1787)、高橋
至時と
間重富(1756〜1816)の二人が相前後して剛立に入門している。
そして、その2年後に「先事館」という正式な塾名を掲げ、麻田学派としての研究が本格化することとなる。
当時、西洋天文学の知識は『
暦象考成上下編』から得ていたが
『暦象孝成後編』を入手したことで、研究は飛躍的に発展した。
元々、この「後編」の方は国内に2、3冊しかなく、入手は非常に難しかったはずなのだが、重富の努力によって、寛政4年(1792)頃に、
何とか手に入れることができたのだった。
『御製暦象考成後編』 東京大学総合図書館所蔵
どちらも中国で翻訳されたものであるが、その内容は大きく違っている。
それは、「上下編」では「水・金・火・木・土」の五星についても解説されているが、公転軌道が正円で算出されている。
一方、「後編」ではケプラーの楕円軌道を取り入れている。しかし、五星については触れられていないのだ。
しかし、歴学からすれば、先ずは太陽や月の正確な位置を推測するために「後編」を理解する必要があった。
そして、それができたのは彼らだけで、幕府天文方では難解すぎて理解できなかった。
その頃は、宝暦暦
*)が使われていたのだが、不具合が多く、少々修正したぐらいでは収まらず、不満は高まるばかりだった。
そんな折に幕府からの改暦の依頼を受けた剛立は、老齢を理由にこれを辞退し高橋至時、間重富の二人を推挙している。
当時、思うように改暦が進まない幕府は、下級武士と町人ではあったが、この二人にその任を命じて江戸へ呼んでいる。
至時、重富らに依って完成した寛政歴は寛政10年1月1日(1798年2月16日)に施行された。
*)「宝暦暦」
渋川春梅らによる貞享暦に代わって宝暦 5年(1755)から施行された暦。
将軍吉宗の急死などで幕府の政治力の低下から、朝廷方に主導権が奪われ完成した暦だが、貞享暦より劣ると評判が悪かった。
農業や庶民の暮らしにも支障をきたし、結局、幕府や朝廷は不満の声に抗しきれず、改暦を決定した。
『寛政歴書』測量台の図(国立天文台所蔵)
『ラランデ歴書』(国立天文台貴重資料蔵)
(左上)ジェローム・ラランデ(出典Englishclass.jp)
(1764〜1804)
大阪定番同心の子として生まれ、15歳の時、父の後をついで大阪定番同心になる。
24歳の時に剛立に弟子入り。32歳の時に幕府から改暦の命を受けて重富と共に江戸へ。
天文方に任ぜられた至時は、重富らと共に「寛政歴」を完成させた。
その後も天文方として江戸に留まり、公務の傍ら五惑星の軌道の研究に打ち込む。
そして、病床の剛立に自説の宇宙論を書き送ったりしている。
剛立が没してから暫くして、、至時にとって幸か不幸か『ラランデ歴書』に出会うこととなる。
それは正に、至時が求めていた最新の西洋天文学の解説書だった。至時は、その解読に没頭した。
そして『ラランデ暦書管見』の執筆に取り掛かった。
だが、すでに病にあった至時は、その無理を押しての研究がために41歳の若さでこの世を去ることになる。
『ラランデ暦書管見』は彼の息子の高橋景保、渋川景佑らに引き継がれ、文政 9年(1826)に完成する。
至時には、もう一人有名な弟子がいた。全国測量を成した伊能忠敬だ。
至時は、その測量の命が忠敬に下りるよう何度も幕府に掛け合っている。その狙いは
緯度一度の正確な距離を測ることであり、地球の円周や直径を求めることだった。
そして、忠敬らがもたらした実測値の正確さが、『ラランデ歴書』に記載されていた値から確かめることができたのだ。
【間重富肖像画】(大阪歴史博物館所蔵)
【間重富】
(1756〜1816)
大阪の裕福な質商「十一屋」の六男として生まれ、7代目として店を継いでいる。
32歳で剛立に入門し、至時と共に江戸に出て「寛政歴」を完成させている。
その後、大阪に戻った重富は、観測を続け、江戸に残った至時の天文方として仕事に協力している。
至時が亡くなり『ラランデ歴書』の解読が中座したため、幕府に呼び戻された重富は、至時の息子の高橋景保、渋川景佑兄弟と共に翻訳を引き継ぐ。
重富は、その豊富な財力から彼独自の種々の観測器具を残している。また、入手が難しいとされた『暦象孝成後編』の入手にも成功している。
至時が研究派なら重富は実践派といえるかもしれない。
『星学手簡』渋川景佑編纂(国立天文台所蔵)
『
星学手簡』
渋川
景佑編纂(1773)
天文方として江戸に残った至時と大阪に戻った重富との間で交わされた往復書簡集。
蘭学、暦書、観測や観測機器についての意見や近況報告などが記されている。
渋川景佑は高橋至時の次男で、渋川家の養子となる。
兄の高橋景保や伊能忠敬らと共に父の至時に学んでいる。
「大宝歴」の作者として知られる景佑だが、全国測量で忠敬に同行したこともある。
父と兄の後を継いで『ラランデ歴書』の翻訳を完成させたのも景佑だった。
麻田剛立とケプラーの第3法則
「惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例する」(1619年)
ケプラーの第3法則の発見から凡そ170年後に、麻田剛立は、独自に「五星距地之奇法」として発見したと云われている。
それは『麻田翁五星距地之奇法』の中に記されている。この文献は、剛立の門人である西村太冲が彼の話を聞いて書いたものと推測されている。
後ろに間重富の振り子の性質を使った解説が加えられている。
剛立亡き後、高橋至時は『ラランデ歴書』から第3法則を知って、「麻田翁の発見した法則と同じものだ」と記している。
そして、その喜びを重富にも伝えている
1790年代の頃、この第3法則を知る術は絶対にないとは言い切れないことや、剛立がほとんど著述をしなかったことなどから
この独自の発見を否定する意見が全くない訳ではない。
当時、剛立達が必死に解読していた『暦象孝成後編』にケプラーの第1、第2法則は載っていたが、第3法則には触れられていない。
それは、当時の中国に於いても歴術的な必要性が低い第3には触れなかったと考えられる。
そこに敢えて踏み込もうとした剛立らの研究が、この後の天文学への道筋をつけたのだ。
歴術の道具としての天文学から、宇宙の構造を解明しようとする現代の壮大な天文学への第一歩を踏み出した、その点を称えたい。
この独自の発見の真偽より、実証と理論を繰り返す今日の科学に通じる剛立の研究、それを世界が「クレーターアサダ」として称えたのだ。
<引用・参考文献>
1)『江戸時代の天文学【2】』嘉数次人 著(大阪市立科学館)
2)『麻田剛立に関わる彗星の楕円軌道を論じた書簡』上原貞治 著
3)『『月に名前を残した男』鹿毛敏夫 著
4)『天文暦学と政治観測』清水光明 著
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