各務原という地名/難読地名のル−ツ
(各務原市歴史民俗資料館館長) 西村 勝広
-------俗説にとらわれない分析や考証により歴史の真実を追求する歴史学の立場より
◆「各務原」の読み方

【JR各務原駅】
各務原市という地方公共団体名は、昭和38年の市制施行時に“各務原”という地名を採用して誕生した。
この読み方は、公式には“かかみがはら”だが、他に幾通りも存在する。
例えば、岐阜県立各務原高等学校は“かかみはら”と読み、JR高山線の各務ヶ原駅は“かがみがはら”と読む。
市民の日常会話のなかでは、他に“かがみはら”などが用いられる。
各務原の発音が一通りでないことは、その読み方が今日までに変化してきたことを意味していよう。
各務原台地の名称の変遷 |
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5世紀代 | 各牟(かがむ) | この地に来た渡来人が各牟(加々ム)氏と名乗った |
飛鳥時代 | 三野国各美 | 藤原宮跡出土木簡 |
平安時代 | 各務郡 | 和名類聚抄 |
1721年 | 各務野 | 貝原益軒『岐蘇路記』 |
「鵜沼の西のはづれより西に広き野有。各務野と云。 |
1738年 | 三野(みの)→ 青野・大野・各務野 | 『美濃明細記』 |
1876年 | 各務ヶ原 | 各務ヶ原大砲射的場計画 |
「野」が開発されて「原」になる(柳田国男) |
1917年 | 各務ヶ原陸軍飛行場設置 |
1954年 | Kagamigahara | 米軍空爆資料中の表記 |
◆各務氏と各務郡
各務原の読み方を検討する前に、その由来を考えてみたい。各務原は、「各務」+「原」と分解できる。
各務は、古代から近代半ばまで、当地域の郡名(各務郡)として用いられた。また、この各務郡を中心に活躍した各務氏の存在を示唆する。
5〜6世紀頃、中国や朝鮮半島から多くの渡来人が帰化した。当地域に定住した渡来系一族に各務勝氏がいた。
各務氏に与えられた勝(すぐり)という姓(かばね)は、渡来人に限定したものである。
【図1 各務郡・各務郷・各務野の位置関係 (googleマップより引用)】
地名が先か、それとも人名が先に存在したかは議論の余地があるが、大抵は地名が先行する。
彼らが来訪し本拠地とした土地は、現在も「各務おがせ町」などの各務地名が残る旧各務村に相当すると思われる。
この一族は、当地で定住する際に既存した各務という地名に因んで自らを名乗ったと考えられる。
大和王権による地方編成の一環として「国・郡・里」制、そして「国・郡・郷」制が敷かれ、当地では美濃国の下に各務郡という行政単位が成立する。
さらに、各務郡の小区分の一つに各務郷が存在した。旧各務村を、この各務郷へ比定することに異論はないと思われる(図1)。
各務郷(旧各務村)を拠点とした各務氏は、郡の全体を取り仕切る郡司に任命された。
郡域には複数の氏族が割拠していたが、各務氏が代表となり、その名が郡名に採用され各務郡となった。
各務氏は、後の平安時代に西方の厚見郡(現岐阜市相当)にも勢力を伸ばし、その実力を発揮する。
◆各務野と各務ヶ原
【「貝原益軒像」 狩野昌運筆】
江戸時代に貝原益軒が著した『岐蘇路記』には、「鵜沼の西のはづれより西に広き野有。
各務野と云。此辺各務郡なるべし。野の北に各務といふ村あり」と記されている。彼は、各務郡と各務野、各務村の区別を正確に理解していた。
各務野とは、農業条件が悪く長い時代、広大な野のままであった各務原台地(今日の地形名称)を指す。
およそ江戸時代から各務野と呼ばれ、範囲内に位置する六軒や二十軒という地名からも、人口密度の低い野であったことが知られる。
幕末から近代には、この広大な野は注目され、大砲演習場や飛行場として利用された。
それまで役に立たなかった土地に、役に立つ時代が到来したのである。
人々が野へ踏み込んだことで、原という土地認識に変わり、各務野は助詞の“ヶ”を挟んで各務ヶ原に改められた。
この時の地名は、各務ヶ原駅という駅名に今も記憶されている。
◆各務のルーツ
各務のルーツが鏡でないとすると、一体、何か。その答えは、渡来人が最初に定住した旧各務村に求めなくてはならない。
そこで、各務おがせ町の現地に立ってみると、土地の周りを山が囲む地理的特徴を実感することができる。
これらの山脈は、地質学的には美濃帯堆積岩類と呼ばれ、太平洋の沈殿物がプレートの移動にともない数億年かけて日本列島へ乗り上げた岩脈である。
そのような地形の由来を古代の人々が知る術はないが、複数の山稜が褶曲や破断により「く」の字に折れ曲がり、
幾重にも重なり合う地形は地上からも分かりやすい。あたかも、一定の土地空間を囲むように、尾根が屈むような形状を呈している。
各務山も、その山稜を成す一つである(図2)。
すなわち、この“かがむ”地形こそが各務の地名語源
*1)で、各務山は古くから既存した山名であると考えられる。
そこへ渡来人がやってきて、その名称を自らの名に掲げたというわけである。
【図2 美濃堆積岩類による褶曲地形(国土地理院の標高データから作成)】
*1) 尾根の屈むような形状
当時は「屈む」という表現の言葉は使われていなかったことから、この説はないと修正されました。
(講演「続各務原地名」2017/4/15より)
◆ 各務原の読み方
太平洋戦争で米軍が作成、使用した地図や航空写真を見ると、正確な地名が記入されている。
ローマ字表記が幸いし、当時の各務ヶ原はKagamigahara、各務山はKagamiyamaと読まれていたことを教えてくれる。
つまり二つ目の“か”は濁音の“が”となり、“かがみがはら”となる。
古代の墨書須恵器(石神遺跡)や戸籍(御野國各牟郡中里太寶貳年戸籍)から、初めは各牟と表記されていたことが分かる。
その後に“各務”と改められた。戦時中の事例から各務を“かがみ”と読んでいたとなると、最初の各牟は“かがむ”と発音した可能性が高く、
山稜が屈む地形に由来するという考察と整合性は高い。
では、各務ヶ原の読み方が、どのように変遷したのだろうか。
既述のとおりJR高山線の各務ヶ原駅は、開設された大正9年(1920)のまま “かがみがはら”と読む。
一方、並走する名鉄各務原線の駅名は、刻々と変化している。
名電各務原駅は、昭和13年(1938)に、前身の二聯隊前(にれんたいまえ)駅から名称変更された駅である。
当初は“めいでんかがみはら”と読んだが、昭和40年(1965)には“めいでんかかみがはら”と、表記はそのままに読み方のみ変更された。
この駅名変化から、当時の情勢を知ることができる。
つまり、昭和13年の頃には、各務ヶ原“かがみがはら”から助詞の“ヶ”を省略し、
発音も“が”を一つ差し引いた“かがみはら”の読み方が派生していたことを伺わせる。
しかし、戦時中の米軍資料には、この読み方が反映されていないことから、旧来の地名と併わせて使用されていたと言える。
そして、昭和38年に各務原市が誕生し、その読み方を
条例で“かかみがはら”市と決定した
*2)。
翌々年、この新市名と同じ読み方に名鉄が対応したということが分かる。
駅名の変遷 |
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1926年 | 二聯隊前駅 | 一聯隊前駅 |
にれんたいまええき | いちれんたいまええき |
1935年 | 各務原鉄道→名岐鉄道→名古屋鉄道 |
1938年 | 名電各務原駅 | 各務原運動場前駅 |
めいでんかがみはら | かがみはらうんどうじょうまええき |
1949年 | --- | 運動場前駅 |
--- | うんどうじょうまええき |
1960年 | --- | 各務原飛行場駅 |
--- | かがみはらひこうじょうえき |
1965年 | 名電各務原駅 | 各務原飛行場駅 |
めいでんかかみがはら | かかみがはらひこうじょうえき |
2005年 | --- | 各務原市役所前駅 |
--- | かかみがはらしやくしょまええき |
*JR(旧国鉄)各務ヶ原駅は1920年開業以来変わっていない。
*2) 各務原市例規集/第1類 総規/第1章 市制施行
◆最後に
巷に混在する各務原の読み方は、どれも間違いとは言えない。また、混在することで市民間のコミュニケーションに支障はないであろう。
しかし、他地域の人には混乱を与えかねない。もし、何がオリジナルかと問われれば、各務ヶ原“かがみがはら”と答えるのが正しい。
また、今日の公式な読み方は何かと問われれば、各務原“かかみがはら”である。
市制施行の時、なぜ二つ目の“が”を濁らなくしたのかは不明である。発音を現代的にスマートにしたと単純に考えることもできる。
ところで、明治29年(1896)、古代から各務郡であった地域は、厚見郡や方県郡の一部と合併し稲葉郡となった(図3)。
ここに、各務郡という行政区分は、一旦消失した。
そして、市制施行の昭和38年(1963)、四町合併協議会では、新市名を命名するにあたり戦前から全国的に有名だった各務原飛行場を意識し、
その各務原の名を採用することを満場一致で採決したと聞く。この時、各務という由緒ある地名の復活を成し得た意義は大きいと思われる。
以上、本論では俗説にとらわれず、幾つかの根拠を積み上げて各務のルーツについて新しい見解を論考したつもりである。
今後、根拠ある反論に期待したい。
【図3 稲葉郡の範囲(googleマップより引用)】
<引用・参考文献>
1)各務原市教育委員会編:『各務原市史』通史編自然.原始.古代.中世,1986
2)各務原市歴史民俗資料館「各務野ヒストリー探検MAP」,2013
3)『米国戦略爆撃団調査報告書』,1946
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