Culture

UpDate/2017/10/30


各務原風土記
安田 修司

赤枠の写真はクリックで拡大表示されます。
(カーソルが「プラスルーペ(拡大)」に変わります)

1.権現山トンネルから思うこと

権現山トンネル/東海北陸自動車道上り高速バス停付近より撮影2017/6/27

神明神社入口

境内に祀られた権現山神社

本殿と乃木大将像

 岐阜から高山へ高速道路で行こうとすると、各務原インターから北上して、尾崎団地の手前でトンネルに入ります。 権現山トンネルです。長さが1400m位なのでアッという間に岩滝方面に出ます。さて、そのトンネルの名前です。 権現山という名がついているので、改めて各務原市の地図を見ますと権現山(208m)という名の山の頂上真下を通過していることに気が付きます。 どうして権現山という名の山があるのだろうか?いささか調べてみたくなりました。
 『各務原市の地名』*1) という本が図書館に有り、やはり書いてありました。
「東海北陸自動車道が貫通する以前、この山の頂上に富士神社(権現様)が祀られていました。 今は、那加西市場の神明神社(夢蔵という蕎麦屋さんの西)に合祀されました。・・・・」
しかし、これは大変おもしろいことです。 岐阜市内に住んでいるものにとって、権現山といえば、ある程度齢を重ねた人たちはあの権現山かといって時の鐘の権現山というだろう。 そして、今、ほとんど忘れ去られてしまった東照宮(徳川家康公)が祀れていたことによることもはるか昔のことになってしまった。 何故この山にあったかって? 麓に尾張藩の岐阜奉行所があったからでしょう。

岐阜市権現山の「時の鐘」

芥見の山火事

 もう何年経つだろうか。岐阜市内の芥見で山火事がありました*2)。 確か、権現山といっていた記憶です。 これも気になったものですから、芥見の郷土史を見ていたら、頂上に吉野神社が祀られていましたとの記述がありました。 明治以前の古き時代には、蔵王権現(ざおうごんげん)と呼ばれていた神様のことです。
 4月は各神社の春の祭礼があります。 岐阜市内の北一色で、白山神社の恒例餅投げが縁起ものとして挙行されていました。 拝殿近くには、幟が数本立っていました。白山権現大菩薩でしたかね。ここも権現ですね。 聞いたりして調べたら、本殿の背後の山が権現山というらしい。そして、この白山神社の奥ノ院がこの山の上に祀られているという。 そういえば、昨年のNHK大河ドラマ、真田丸のシーンで真田昌幸が白山権現の掛け軸の前でいろいろ相談ごとをしていました。 多用な意味と精神的深さと身近さを持った権現ということば・世界を簡単に忘却のかなたへやっていいのだろうか。 トンネルの名称、山の名前、神社の名称の変遷をかみしめてみることも大事なことだと思う。
*1) 『各務原市の地名』
各務原市歴史民俗資料館『各務原市資料調査報告書第14号』1991/3

*2) 芥見の山火事
平成14年(2002)4月5日 午後1時25分ごろ発生し、翌6日午後4時30分の鎮火

2.蘇原三柿野町辺り

 地図上の各務原台地で気になる箇所の一つが、蘇原ろっけん通り近辺に有ります。 蘇原ろっけん通りとは、蘇原中央通りと重なります。

各務原市蘇原三柿野町周辺地図/国土地理院標高図より合成

各務野ヒストリー探検マップ

 この蘇原ろっけん通りを主軸として、交差する東西の道路が、扇形の羽を広げたようにそれぞれ傾いています。 西方は20度、東方は45度、それぞれ北に上がっています。 現地へいくと、台地の谷筋がそのようになっているので道がこのようになっているのだということが実感できた次第です。 そして、改めて、何度も「各務野ヒストリー・探検マップ(各務原市歴史民俗資料館発行)」を見つめていますと、 そして現地へ行くと、この台地の鋭く切れ込んだ谷に、台地の不思議な力と働きを感ぜずにはおきませんでした。
 この谷筋には、西に蘇原第二小学校、東には長者稲荷大明神(谷筋から少し上がり気味の傾斜地)・柿沢公園がありました。 台地の不思議な力、ダイナミックな働きを感ずる場所ですね。これに似た谷筋は、もう一か所市役所の北方に、地図上から推測されます。

蘇原ろっけん通りを北から

蘇原第二小学校東の通りを南から

 さて、この蘇原ろっけん通りの一部町名は三柿野町といいます。この町名は、明治7年に @三滝新田 A柿沢村 B野村が合併して各務郡三柿野村が出来たと各務原の歴史に記されていました。 @の三とAの柿とBの野を合わせて三柿野というわけですね。 @は、蘇原六軒町1〜4丁目、Aはいわゆる柿沢町を中心とした地域。 Bは官有無番地とあるので、航空自衛隊岐阜基地となってしまったところの一部と思われます。
 この@の三滝新田は、元禄15年(1702)頃にこの辺り「三か村入会地」(西市場村・桐野村・岩地村)開発に尽力した町人(町人請負新田)の 名前が隠れていました。美濃中山道加納宿の脇本陣三宅佐兵衛の三と同加納宿脇本陣の滝屋(森)孫作の滝に由来します。
 開発は難儀を極め、最終的にはその開発は半分くらいしか出来なかったようです。 そして、明治になってからその土地の権利を放棄したと聞きました。  加納町史下巻に、江戸前期の人物で森永孝(孫作)が掲載されていました。 「和歌に長じ、加納宿西郊の名木、往来の松を賞した和歌・詩を集録して詩集の巻冊を作った」とあります。 また、仏教心厚く、「赤穂網干の盤珪禅師を招じて、羽島郡小佐野村に金竜寺を創建しました。」とあり、 加納藩が全国的にも最も文化的に充実していた時代背景(加納藩戸田光永・戸田光煕七万石)による社会事業だと思われる。

3.木曽川旧河道の進展と足近川あじかがわ

 手元に、通説木曽川洪水により河道が変わったという天正14年以前の木曽川河道を描いた資料が3枚あります。列記します。
  1. 各務原市歴史民俗資料館発行の各務野ヒストリー探検MAP2013

    紫色で旧河道を表示。但し、各務原市内のみの記入

  2. 木曽川学研究協議会発行の機関誌『木曽川学研究』各号の表紙の裏面

    昔の木曽川の流れとして天正14年以前の木曽川が黄色で表示されています。
    勿論、松本町から岐阜市茶屋新田までその流域が黄色表示してあります。

  3. 笠松町発行の郷土史『ふるさと笠松』P60 図2-7【旧木曽川流路】1983/11

    但し、大佐野から笠松町門間までしか描かれていません

【下図木曽川旧河道の色区分】
:@、 :A、 :B、 :@+A、 :A+B
各資料を元にフリーハンドで描き加えているため、厳密的な各河道の領域の精度は、余りありません。
▼クリックすると、縮小した全体図が表示されます

各務原台地西部から長良川までの木曽川旧河道
(ベースの標高図は国土地理院、基盤地図情報,数値標高モデル5mメッシュより加工)

 では、つぶさに見ていきたいと思います。@とAの決定的な違いは、松本町から西北方向に旧河道が 動いているのは同じなのですが、上中屋町交差点(各務原大橋の北詰交差点からみて直ぐ北の交差点 ・当該交差点の西北にはファミリーマート)辺りから西北方面と西方面とに分流していることです。@は分流しAは分流していません。

上戸町コンビニより東を望む(2017/7/9)

 上中屋町交差点から北方面に急激に地面が下がっているのはその証左でしょう。 また、稲羽中学校の南境と上中屋町3・4丁目集落とのあいだの田んぼ地帯はその痕跡だということです。 400年以上前のことです。写真は、上戸町1丁目辺りからのものです。
後日、この上戸町周辺の河道跡とされる地域で撮影を行いました。
(2017/7/19)
下の地図での撮影地点(矢印)をクリックすると、写真が表示されます。
その写真には、河道と思われる一帯を薄い青色で示しています。
また、印は上の写真の撮影地点です。

上戸町周辺の標高図(国土地理院、基盤地図情報,数値標高モデル5mメッシュより)

 さて、気になるのはBの図面です。足近川(あじかがわ)という川が、木曽川旧河道の本流から岐南町野中で分かれています。 笠松町の松枝辺りまでは描いてあります。
 この足近川、秀吉の竹鼻城水攻めでその名が知られた川です。 豊臣秀吉は天正12年(1584)3月から4月にかけて小牧・長久手の戦いで家康に惨敗した。 大阪に帰る途、家康を誘き寄せるためか5月にこの竹鼻で水攻めの土塁を数日で造り城の水攻めを断行しました。 太閤山という史跡があります。(羽島市間島)
 大変興味深い本があります。
  榎原雅治著『中世の東海道を行く』中公新書/2008/4月*)
鎌倉時代に京都から鎌倉への貴族の旅行でその紀行文です。 著書によると、勿論断定ではありませんが、足近川が旧木曽川の支流ではなくこの時の木曽川本流かもしれないとか、 今の木曽川を及川といっていたかもしれないというものです。 興味のある方は一読されると良いかと思います。 目次より興味ありそうな項目を列記します。
第二章 乱流地帯をいく――美濃
木曽三川
  • 三つの川
  • 杭瀬川・墨俣川
  • 天正14年の木曽川洪水説
  • 「木曽川」、天正12年
  • 足近川=中世木曽川
木曽川の誕生
  • 木曽川の流路変化
  • 流路変更と地殻変動
    
*) 『中世の東海道を行く』――京から鎌倉へ、旅路の風景
 本書では、中世の旅人が記した文字資料に忠実に地図を描いていくとどうなるか、 あるいは江戸時代以降につくられたことがはっきりしている風景や地形を取り去っていくと、 それ以前の姿がどのように現れてくるかを考えてみたい。 きわめて素朴な問いと試みであるが、あるいは歴史学、文学、地理学、地質学のはざまで、 これまで意外と軽視されてきた問題ではないかと思う。 そしてまた、そこで明らかになる東海の風景は、ひとり東海のみならず、かつての日本列島の随所で見られた風景であるかもしれない。
(本著「はじめに」より抜粋)

榎原 雅治 (えばら まさはる)
昭和32年(1957)、岡山県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。東京大学史料編纂所助手、同助教授を経て、同教授
(本書が刊行された当時の紹介文より)

4.各務原台地の亀裂?と野川

 各務野ヒストリー探検MAPを凝視していますと、渓をイメージさせる所が2か所あります。紺色が少し濃い色で表示された箇所です。 一か所はすでに、ろっけん通りとか蘇原第二小学校の説明で述べました。もう一か所が今回のテーマです。
 現地に立つと、ああ!各務原台地には大きな台地の亀裂の痕跡があるんだなあと。たどってみましょう。

各務原西部/新境川に注ぐ水路
(国土地理院、基盤地図情報,数値標高モデル5mメッシュより改変)

写真-1 町域の境界を流れる水路

写真-2 信長公園南西角から川を撮影

写真-3 信長公園西側の通り

写真-4 那加桜町3丁目

 那加バイパス(国道21号線)で蘇原三柿野町という交差点の南方一帯は、勿論航空自衛隊岐阜基地の敷地内です。 市販の地図には、「百曲り水路」という川らしきものがあります。その水路の水の一部が那加バイパスの道路下を潜って北側に出て西進しています。 蘇原三柿野町と那加桐野外二ヶ所入会地、両町の境の川(写真-1)となっているわけです。 そして、この幅1m足らずの川(この辺りは特に狭い)に向かって、近辺の土地がほとんど傾斜して坂となっているのです。 具体的にいえば、六軒神明神社の交差点、すなわち、その交差点の那加メインロードから少し南方面へ歩くと直ぐ道路がどんどん下がっていきます。 この小さな川を中心として浅い凹地を形成しているのです。この傾斜は只事ではでありありません。 かって、この川の今の川幅の5倍以上はあっただろう川であった可能性を窺うことができましょう。 1〜2m足らずの川幅の川(下流へ少しずつ川幅が広くなります)に水を押し込めてしまったのかもしれません。 では次に移動しましょう。信長公園(那加信長町三丁目)の南縁に沿って西北方向へこの川(写真-2)は流れています。 公園の南側は、川の縁の草木で鬱蒼としており水が深ければ河童でも出そうな所です。 昼間でも薄暗い所です。信長公園の西の南北道を写真に撮りました(写真-3)。ものすごい坂地形ですね。 次ぎ織田信長公園の南です。この辺りも川幅はほとんど変わりません。 そしてこの川に向かって急坂になっているのは、北からも、南からもです。 少し西向きにながれ、いよいよ名鉄各務原線・JR高山本線の下を潜って通称ユーエス通りの道路下をとり那加桜町3丁目(写真-4)を北上しながら、 桜丘中学校のグランド南端を経て新境川へ注いています。 この川の名前を何と呼ぶのだろうか。信長公園の近くにお住いの方に聞きました。
「私はよそからこちらへ来た者ですのでわかりません。普通の、排水路ではないですか?」
別稿でふれた蘇原ろっけん通りを横断している谷筋は、市販の地図や住宅地図には巾下都市下水路という名称記入があるものの、 「蘇原の歴史」という昭和59年3月発行の郷土史の付録にある蘇原町全図にはそれらしき川の名はありません。 しかし、本稿の川名、書いてありました。『各務原今昔史(那加村)』大正15年10月発行に「野川」と明記されていました。 『各務原の地名』という本にも野川(P84)がありました。川の名前を忘れてはいけないと思います。

 「行到水窮處」―水は低き所を流れ、より低き所へ移動する―
これは禅語です。 今日、線状降水滞による時間降雨量120ミリというのを聞きます。他人事ではないと思います。 先般の五条川の氾濫(2017/7/15)についても、もう少し川幅があったらなという話を聞きました。 改修前の川幅はもっとあったように思えました。 愛知県の江南市や扶桑町を歩くと、青木川や般若川がその近辺の地形から察すると大変川幅を狭くしたのを感じます。 自分の住んでいる所はどんなところか、どういうリスクをもっているのか、他所と比して土地の標高が高いのか、低いのか、 土地の秘められた履歴を知ることは極めて大切なことだと思います。

5.藩塀はんぺいとその背景についての私見

伊木山麓「熊野神社」の藩塀

 鵜沼伊木山の麓を、ウォーキング大会で歩いた時の体験です。 無住のお寺、観音寺の前をよぎって参道の極まった所に熊野神社がありました。 この神社の、石造りの藩塀に大変驚き、感動の念が起きたことを覚えております。 これは何だ!拝殿の前に立ちふさがって、拝殿や本殿を直接見れないように、 神様への畏れ多い気持ちの表れからこのような構築物を造ったのだろうかと思いました。
 小生、岐阜市内に在住のものです。近在にある神社は、概ね参拝したつもりです。 この藩塀と思しきものは、いまだかって見たことがありません。
この時、勿論この社殿の一建造物である藩塀という認識はありませんでした。

鵜沼羽場町「津島神社」の附藩塀

六軒「神明神社」の藩塀

 その後、徐々に各務原市内の神社を意識して参拝しておりますと、鵜沼羽場町の津島神社に出会うことになりました。 鵜沼福祉センターの直ぐ東にある神社です。 当神社拝殿の南に農村歌舞伎の舞台皆楽座があり東西道路との間に立派な木造の藩塀があります。 そして、舞台皆楽座の東北角に皆楽座の説明をした標柱があるものの、“附藩塀”とのみの但し書き記述だけではいかにもさびしいと思う。 しかし、この附藩塀により固有名詞を知った次第です。 最初、何かおかしな名だなあ!と思いましたので漢和辞典で藩を調べました。 藩には、かきねとかおおいという意味があるのでなるほどと納得しました。
 藩塀について、神社に関係した単行本の一般書物で、神社の構造の項を数冊調べてみました。 この藩塀に言及した本はありませんでした。 要するに、一般的な構造物ではないから掲載されていないということなのでしょう。
 犬山市立図書館に用向きがあった時、何気なく『小牧の神社』*1) という 本を見ておりましたら、第三遍境内の探訪にその藩塀の記述がありました。以下その項を全文引用します。
 参道を進むと、拝殿まえに立ちふさがるようにある短い塀が「蕃塀(ばんぺい)」である。 ただし、伊勢神宮の南面蕃塀は、参道の御正宮の反対側の縁にあり、決して内部を覆い隠す形になっていない。 一方、愛知県内の蕃塀は、本殿の中心線上で正面に平行してあり、参拝者を遮断する形となっている。 こうした、配置の特徴から、本殿を直視しない(できない)ようにするためとか、 不浄なものの侵入を防ぐために造られたと考えられることが多いようだが、正確な目的は不明である。 その規模や形状から、様々に分類される。中でも、蕃塀の中央に連子窓と呼ばれる細い柱状の 材を均等に並べた窓を持つ「連子窓型蕃塀」と連子窓を持たない「衝立型蕃塀」に大別される。 愛知県下では圧倒的に連子窓型蕃塀が多く、衝立型蕃塀は少ない。 また、材質は木造と石造などの種類があり、当初は木造連子窓型蕃塀であったのが石造連子窓型蕃塀に変化していったと考えられる。
 もう一つ、手元に「一宮の神社、探索体験談」*2) という資料があります。 そのなかで、当該蕃塀について以下のように記述されています。
 「不浄除け(他の呼称:蕃塀、透かし垣)
 これは尾北地方の神社に特有の建築物らしい。 呼称については色々あるようだが、ある神社で教えてもらった。「不浄除け」を採用した。 これには決まった形式はないようで神社ごとに色々あり、興味深い。不浄除けの実例を示す。  大毛神社(大毛五百入塚)、坂出神社(佐千原宮東)透かし垣(不浄除け)と書いた看板がある。
 以上、二つの資料を吟味すると様々なことが見えてきます。
  1. @

    藩塀(はんぺい)と蕃塀(ばんぺい)。

  2. A

    藩塀の有無についての広がり状況を、“愛知県内の藩塀は”といういい方には愛知県外にもありますというのが 隠されているということか。そして、“尾北地方の神社に特有の建築物らしい。”

  3. B

    連子窓型蕃塀と衝立型蕃塀という形式と決まった形式はない等。

 @については今回は特に言及しません。漢字の相違と読み方の違いです。 私に興味が注がれるのは、Aの問題です。 当該神社の構築物である藩塀の分布状況については、専門の民俗学者が調べたかもしれません。 私が知らないだけだろうと思います。いたし方ありません。 今は手元の情報と、私が実際歩いた限られた情報から推量します。

笠松町東米野「日枝神社」の藩塀

川島町笠田「白髭神社」の藩塀

 先ほど述べたように、岐阜市内には全くありません。 笠松町東米野で日枝神社の石造藩塀が一番西に位置するものだと理解しています。 川島町笠田の白髭神社の木造藩塀は大変立派なものです。 勿論鵜沼地区にも相当数確認できました。(鵜沼地区全部の神社にあった訳ではありません) 細かくは言及いたしません。 そして、愛知県の犬山市、扶桑町、大口町、一宮市、小牧市等、実際歩いたり、 自動車で移動したときに散見したものの印象から思ったことがありますので以下述べてみたいと思います。
 独断と偏見かもしれません。結論を先にします。 尾北地方に多く見られる神社の一構築物、社殿の一つである藩塀は、尾張初代藩主、徳川義直の敬神思想に由来するものだろう。 そして、傅役であった成瀬正成・竹腰正信に受け継がれ、特にこの地方(尾張の北部)に、 その痕跡として神を敬う心の結実したものとしての、藩塀があるのだろう。
 もう少し詳しく見てみよう。『徳川義直公と尾張学』*3) という冊子にこんなことが書いてあります。
かくして義直の礼節・敬神・国史尊重は、遂に勤皇の大義に結実した。……
この件は、要を得ています。 この中で勤皇の大義と敬神について以下触れます。

藩訓秘伝之跡

 名古屋城二之丸広場の南端に大きな石碑(高さが1.8m位)があります。
 「王命に依って催さるる事」
(藩訓秘伝之跡)
石碑の際に、藩訓秘伝の碑の説明版があります。 この碑文は、初代藩主徳川義直の直撰 軍書合鑑の中にある一項の題目で、勤皇の精神について述べている。 歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し、明治維新にあたっては親藩であったのに、勤王帰一を表明したといわれている。この碑の位置は二之丸御殿跡である。” 幕末の尾張藩主、徳川慶勝がこの精神を引き継いていたといわれている。 錦の御旗を掲げた薩長連合軍が、こともなく東海道を東進できたのはまさに尾張の尊王思想に由るものといわれる。
 徳川義直の略歴を調べると、書物の撰述・編纂にも大変熱心な方であることが分かります。 特にこの場合に注目すべきは、『神祇宝典9冊一帖』*4) です。 この書物は、正保3年(1646)に完成したもので、 全国の主要な由緒ある神社を国別に列挙して、その所在・祭神・由緒などを明らかにしたものです。 これは義直の教養と敬神思想を示す資料で、義直自筆とみられる部分もあるとのことです。
 義直の勤皇思想の元は、敬神思想に由来するものだろう。

*1)『小牧の神社』 小牧市教育委員会編集。 2011/12

*2)『一宮の神社、探索体験談』
石井敏明:一宮観光まちづくりゼミ資料 2016/6/18

*3)『徳川義直公と尾張学』 名古屋市編集。 1943/10

*4)『神祇宝典』9冊・神器図一帖 尾張藩主徳川義直編。1646撰

愛知県図書館デジタルライブラリー

6.悟渓宗頓ごけいそうとん *1) と大安寺

写真-1 大安寺、楼門をくぐって薬医門を望む

楼門は下層に屋根のない二階建ての門で、二階には大抵高欄つきの回縁がある。また、 薬医門は棟門を倒おれにくいように本柱の後方に控柱を加えた門。

写真-2 大安寺、土岐頼益と斉藤利永の墓

 鵜沼大安寺町に、寺の名前が町名になった程の大寺院であった、臨済宗妙心寺派の大安寺(写真-1)があります。 大安寺川という寺名の川も有ります。
 この寺院の開基は土岐頼益よります*2) といい、 美濃国第6代の守護でした。境内には土岐頼益と守護代斉藤利永の墓(写真-2)があります。 以前は、本堂の近くに埋もれていたと聞いています。 関係者のご苦労で現在は、駐車場から階段を上がった少し小高くなった場所に並んで建っています。 最初から並べられて建っていたのかはよくわかりません。守護と守護代ですから。
 さて、『鵜沼の歴史』
(栗木謙二著、昭和41年12月発行)
という郷土史本にこんなことが書いてありました。 大変興味深い内容のものです。後日、他の郷土史でもこの内容文を見ました。
 応仁元年(1467)、悟渓宗頓は尾張国犬山の瑞泉寺に住んでいたが、 秋に鵜沼の大安寺に詣って斉藤利永(大功宗輔)の墓にぬかずき、次いで利永の子、 斉藤妙椿みょうちんを訪ねる途中、 金華山の南麓に天台廃寺の跡を見、ここに寺を建てようと妙椿に諮ります。 利永と悟渓は旧知の仲でしたので、妙椿は寺の創建を快諾し直ちに着工して五年で堂坊を整えます。

写真-3 瑞龍寺の総門

写真-4 瑞龍寺、虎穴塔(悟渓宗頓之墓)

写真-5 瑞泉寺の本堂とイヌマキ

写真-6 瑞泉寺の三門

 建てようとした寺とは、岐阜市寺町にある瑞龍寺ずいりょうじ(写真-3)のことです。 瑞龍寺の典座寮西側に、美濃国第8代守護土岐成頼しげより*3) と守護代斉藤妙椿の墓が並んでいます。 歴史学者は、土岐成頼は応仁の乱のためほとんど京都にいたので、 その留守を預かっていた妙椿は上司の意をよく汲んで美濃国を堅固に守ったという。 そういう理由から墓は仲良く並んでいるという。 本当かしら?当寺の総門の際に、悟渓宗頓の墓があります。 墓を虎穴塔こけつとう(写真-4)といいます。
 さて、悟渓宗頓は瑞泉寺に住んでいたと記されていましたが、 実際この時は、瑞泉寺の直ぐ南の臥龍庵に居住していたといいます。 それはさておき、瑞泉寺の境内地にすばらしい巨木があります(写真-5)。 イヌマキの雄株で樹高9.2m、胴回り150p、樹齢は伝承600年というので応永年間(1400年頃)ですので、 この寺が建てられたときこの木はあったということかな。 マキノキはなかなか大きくならないといわれるが、この木を見ると成る程と思う。 この樹は、悟渓宗頓のことをよく知っているのだろう。 応仁の乱の頃、京都妙心寺が壊滅な状況になった時、京都妙心寺の仮本山となったことがあるくらいに格式の高い寺院でした。
 話は現代の話です。瑞泉寺は、毎週日曜日午前8時〜10時に禅堂で座禅会をおこなっているという。 どなたでも参加でき、費用は無料です。瑞龍寺は、第1、3日曜日の午前6時〜9時に禅堂で座禅会が行われ、 瑞泉寺と同様、どなたでも参加でき、費用は無料です。
 今年は、臨済宗妙心寺派の白隠慧鶴はくいん えかく 禅師*4) 二百五十年遠忌記念の年。 白隠さんの時代には瑞泉寺や瑞龍寺のような専門道場(よって拝観禁止になっています)という制度はなかったと聞きます。 白隠さんは、全国の寺々を巡って修行をし特に20代には美濃地方の禅寺にも掛塔している。 勿論、室町時代の悟渓宗頓の時代も注釈*1) のように「その高弟禅師達の許を訪ね修行を重ねた」とあるがごときです。
 悟渓宗頓は、愛知県丹羽郡扶桑町(山名村)の生まれで、生誕地は悟渓寺となっているが、 人呼んでこの地は悟渓屋敷と呼ばれている。 山名小学校の校歌にも、
悟渓の禅師が産声は今も聞こゆる心地して誠の道をたどりつつ進むわれらに力あり
と歌われています。昨年は12月に、扶桑文化会館で国師悟渓宗頓禅師生誕600年記念祭が行われました。
   
 (創建)(開基)(所在地)
大安寺 応永 2年 (1395) 土岐頼益  
各務原市鵜沼大安寺町1−11
瑞泉寺 応永22年(1415) 日峰宗舜  
犬山市犬山瑞泉寺7
瑞龍寺 応仁 2年 (1468) 斉藤妙椿  
岐阜市寺町19

 或る禅宗の寺院のまえを通りました。掲示版にこんなことが書いてありました。
外を見る者は夢を語り、内を見る者は目覚める
うううuuu・・・・・・・・・思わず唸りました。
*1) 悟渓宗頓〔ごけいそうとん〕(1416〜1500)
山名村に生まれる。父母の氏素性、生誕地は不明とされる。 幼少より非凡な才を示し、小釈迦といわれ、得度して犬山・瑞泉寺に入り日峰禅師の許で修行する。 師が妙心寺再興の勅命受け上京され、跡を追い修行に励む。 師のなき後も、その高弟禅師の許を訪ね修行を重ねた。50才で龍安寺・雪江禅師より「悟渓」の院号を授かる。 以後、「徳の悟渓」と慕われ、岐阜・瑞龍寺の開山や応仁の乱で荒廃した妙心寺・大徳寺ほか各地の寺の再興に尽力する。 [妙心寺の住職になったのは文明13年(1481)] 明応6年(1497)にはそうした功績により生前、後土御門天皇より「大興心宗禅師」の諡号を賜り、 明応9年(1500) 瑞龍寺にて死去。嘉永元年(1848)350遠忌にあたり孝明天皇より「佛徳廣通国師」の号を賜る。

(悟渓宗頓「虎穴録」より)

*2) 土岐頼益〔ときよります〕(1351〜1414)
美濃国の守護。3代将軍足利義満の頃、当時伊勢と美濃の守護であった土岐康行が乱を起こした時、 父頼忠と頼益は幕府軍に味方して勝利し、父頼忠が美濃の守護に任じられ土岐一族の筆頭となる。 父の後を継いで守護となった頼益は文武に優れ、幕閣でも重要な地位を得ることとなるが、 美濃国内では土岐一族の反乱を鎮圧したものの、古くからの土着の一族の不満を抱えていた。 そうした国内を守護代として統治を任せていたのが斎藤利永だった。
*3) 土岐成頼〔ときしげより〕(1442〜1497)
室町から戦国時代にかけての美濃の守護大名。土岐頼益の子持益の養子で実父は諸説ある。 養子となる際に8代将軍足利義政から「成」の1字を与えられて成頼と名乗った。 義父持益には、子は早死であったが孫がいた。 しかし、当時の実力者、斎藤利永によって持益は隠居させられ成頼が守護となったのだった。

白隠慧鶴:「半身達磨」大分萬壽寺蔵

*4) 白隠慧鶴〔はくいんえかく〕(1686〜1769)
臨済宗中興の祖。駿河国原宿(現在の沼津市原)に生まれ、15歳で出家。諸国を行脚して修行を重ね、 42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成させたといわれている。この間、禅修行のやり過ぎで 「禅病」にかかったことがあり、その経験を生かして考案された「内観の秘法」はよく知られている。 地元駿河に帰って布教を続け、衰退気味の臨済宗を復興させ、 「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。
また、白隠が残した1万点にも及ぶ禅画が近年俄かに注目されている。 元々は禅の教えを広く民衆に広めようと描いた書画ではあるが、その独特の技法は、後の絵師や書家にも影響を与えた。


 

7.社宮司しゃぐじとは何か? 古層の神!

各務西町周辺地図/国土地理院2017

社宮司/各務原市小字地名図

成清町の社宮神社

社護司神社/稲荷神社内

 “各務原の地名”(平成3年3月発行)という本に、各務原市の小字地名を記した各務原市の地図が 付録としてあります。その地図に関し、各務西町2丁目か3丁目辺りに社宮司という小字地名が 記載されています。今のところ、現地に何か祠があるのか、また言い伝えがあるのかは定かではありません。
 各務原市の成清町7丁目に社宮神社という社があります。 近隣の方に、どなたが祀ってありますかと聞きましたらよく分かりませんとのことでした。 その社域は、この類の神社にしては意外と広く感じ、一反(300坪)位あるのではないかと思いました。
 蘇原大島町6丁目のおがせ街道沿い北側に、稲荷神社があります。 境内社が数社あります。社護司しゃごし神社が本殿東側に水神様と並んでいます。 以上が各務原市における社宮司および社宮司に関連した地名・神社です。洩れがあるかもしれません。
 なんだ。それだけなの?と云わないでください。もう少し該当地域の範囲を拡げて見てみましょう。 知りえた限りで、かつ見た限りで列挙します。
  
◆岐南町
社宮地しゃぐうじ神社 八剱北6丁目
当神社へ行ったとき、近所の方がこの社の元は長野県諏訪地方にあるらしいといわれました。
者言知しゃごち神社 徳田6丁目
旧徳田村内一畝位(30坪)の社でした。
◆岐阜市
おしゃごじ名鉄新岐阜駅から東方で溝畑町4丁目
溝畑神社の直ぐ東、天王稲荷神社の脇社で大石にしゃごじと刻銘有り。
赤口しゃぐち神社 本郷町2丁目
社域の玉垣に社宮司であるとの説明版有。 本郷町のけやき通り沿い北側、当初せきぐち神社と読むのだろうと思っていました。
おしゃごじ 中鶉7丁目
現地の表示は皆無。 通称一本松という地で村の入口か三斜路の分かれ道。 地元作成のウォーキングマップに尺宮神社とあり、 「文化6年(1809)以前の文書に社宮司、明治初期に尺宮司、宗教法人登記には尺宮祠と記され 創建は不明であるが通称一本松として親しまれている。」
社古神 柳津町南塚5丁目
高さ1m弱の石に、社古神の刻銘有り。 その際には、「村内安全、五穀成就」と刻まれており、現地の説明版には、 “人々の安全と豊作を祈願するところ”とし、「大旱魃になると、大願、大願と大きな声を発して、 村内の各神社を回ります。要所では、雨乞い踊りをします。」と有る。
◆岐阜市近辺
御社古神跡 羽島郡笠松町田代(でんだい)
信長と道三が会見した聖徳寺から、 信長はこの地の田代白髭神社迄道三を送ったという。 この神社の西方200mに、笠松町が建てた標柱がある。そして、近隣の信号機の添付地名が田代社古地という。 「天正17年(1589)太閤検地のときの田畑を測る基準にした所がこの地であるという。 また、検地の時に使った縄を埋めて、祀った所だとも云われている。」

その他、安八町大森に社宮神社が旧竹鼻街道沿いに有ります。 関連した神社等は、もっと範囲を広げればあると思いますがこの岐阜市近辺地域に止めます。
 以上、しゃぐじに関係・関連しているだろう神社等を挙げたのですが、ではそれぞれはどういう ふうに関係しているだろうということです。それについてのヒントは、答ではありませんが柳田 國男や人類学者の中沢新一・長野県在野の考古学者であった藤森栄一*1) ほかの方々の著述・調査資料 を見ることが出来ましたので以下述べます。
 柳田國男といえば、『遠野物語』や『後狩詞記のちのかりのことばのき』が著名な本ですが、 『石神』(明治43年5月発行)も引けをとらない大事な本です。「しゃくじん」といっています。呉音読みが 「しゃくじん」で「いしがみ」とも読みます。柳田國男はこの本の中でしゃぐじの 様々な音の変化・転移したしゃぐじの例を沢山挙げていますが結論は出ていないようです。一部抽 出して書き出して見ましょう。
シャクジン・シャグジ・サゴジ・サグジ・石神社・石神
オシャモジサマ・赤口神社・三狐神・道祖神・幸ノ神・庚申
杓 子・将軍地蔵・大将軍・猿田彦・荒 神・ 障神・賽神
サヘノカミ・十三塚・ソクジ・スクジ・ミサキ・サダ・サク
 『石神』の最終頁には、まとめ風に“現在小祠表”があり「しゃごじ」の様々な呼び方を列挙してい ます。上記以外のものをあげていきます。
山神・天白・市神・天王・五社権現・養父神・薮田神・宇賀神
柳田國男は、この本の ”概要“ の中で
「本書の目的は、主としてこの神の由来を知るに在り」
としていた。昭和16年11月再刊の『石神問答』再刊序(創元社)の中では、
「・・・しかもどういうわけで社宮司、社護神、遮軍神などという様な変わった神の名が、弘く中部地方と その隣接地とだけに行われているのか、諏訪が根源かといふ推測は仮に当たって居るにしても・・・」
と述べ、諏訪のことを周囲からそれとなく聞いていたような書き方です。
 柳田國男は、社宮司の様々に転換した神さまの名前を列挙し、それがほとんど元は同じ神に由来する言い方をしている。  このことに関しては、人類学者の中沢新一は的確にそのことを述べています。 著書「精霊の王」(講談社)第2章で社宮司について詳述している。 その中で、社宮司の呼び方の転換・転移が柔軟にそして縦横無尽に語韻が変化していることを、 「サ+ク」音の変化・結果によりこのように社宮司の名前が変化していると整理して述べています。
 また先ほど触れた、諏訪が根源かということについては、戦後今井野菊女史がこの件について の調査した数字が民俗学辞典にも掲載されています。どのように調べたのかの詳しいことは一般書 には記述がないので不透明な部分がありますものの大変参考になるので以下掲載します。 基本的には、社宮司及び社宮司に関連していると思われる神社の近隣各県別の神社数です。
長野県:675
|
静岡県:233
|
愛知県:229
|
山梨県:160
|
三重県:140
|
岐阜県:116
|
 この数字を観ていると明らかに諏訪大社が関係していると思わざるを得ません。日本民族大事典 (上)1999年10月発行吉村弘文館で「石神(しゃくじ)」の項には、次のように書かれています。
「長野県の諏訪地方を中心に分布。 こうした分布からシャクジ信仰の淵源は古代諏訪信仰にかかわるものだとする見方もある。」
 もっとも驚きかつ、目から鱗が落ちたように納得できたのは、吉田和典著作 の『愛知の神社』
(平成10年9月発刊、愛知県郷土資料刊行会)
という本でした。 その本の尾張地域編では、“三狐社と社宮司”。三河地域編では“社口社”の項です。 長野県の在野の考古学者である故藤村栄一*1) 氏の『諏訪大社』
(昭和40年、中央公論美術出版)
からの引用文です。
 「諏訪大社の祭政体は八世紀に交代した。交代にともなって、それまでの神話・伝承も変容させられた。 新しい祭政体の神は『明神』と呼ばれ、以前の神は 『洩矢神もれやかみ』と呼ばれた。」
 「神長官というのは神社の神職五官*2) のうちの筆頭で、 代々、守矢という姓の一家に伝わる最高の祠官である。
{中略}

 神長官は上古以来、ただひたすら大祝おおほふり に奉仕する人として・・
{中略}
・・現代まで続いている。 そうした主従の関係は『諏訪大明神画詞』をはじめ、たくさんの室町期説話伝承にでてくる。 伝えるところによれば、大祝の始祖が先住民の洩矢神の祭政を攻め、 追いおとして社壇をきずいたのが諏訪神社だと、はっきりいっている。 諏訪の神話伝承にも、この跡がいくつとなく残り、侵入者明神、被征服者は洩矢神というかたちででてくる。 神長官の守矢氏の奉斎していた洩矢神はミシャグチと呼ばれる神々を統括している神で、 ミシャグチは御社宮司・御左口神などいろいろな漢字が転用されている。 むろん記紀に主役をつとめるような神ではなく、自分が死んで、 その死骸から新しい様々な命をよみがえらせる・・・
{中略}
・・保食神・オオゲツヒメ・・
{中略}
・・ 自然神で、食物・生産または土地についての強い権限を持っていた。
 ミシャグチ神の祭祠は、いま多く廃祠となってしまったが、古くは、中部日本全体に広く分布していた。 多くは一小単位の集落、つまり村々の神で、村の台地の上や谷口にあり、はじめは社殿をもたず、 巨木・巨岩・・
{中略}
・・などに降りてくるナイーブな自然神であったようである。 さらに、このミシャグチ神を奉斎する村々の連合体のようなものが考えられ、そのミシャグチ祭政を総括する 位置にあったのが、大祝諏訪神の先住者であった洩矢神である。」
この文章を読んでいると、時の政治からはみ出た神社、傍流となった神社、異端となった神社は、 村の神社の脇社にどんどん追いやられていく過程が目に見えるようです。 時代に厚遇される神社というものがあるのだなあと思います。

中山道分限延絵図/本庄村

三光寺御殿跡

説明板/三光寺御殿跡

 筆者の住所の、北方4〜500メートルに旧中山道が東西に走っています。 中山道を描いた絵図に中山道分限延絵図というのがあります。文化3年(1806)頃までには完成していた絵図です。 その絵図の美濃加納宿から西へ行くと清村と本庄村があります。 その村境の当街道の北と南に社宮司がそれぞれしっかり描かれています。 しかし、現地に今は何もありません。どこへ行ってしまったのだろうか。調査しました。 北側の社宮司は、本荘鳥屋八幡神社に合祀されていました。 本荘校区の『うつりかわる本荘』という郷土史に記されていました。 南側の社宮司は、清村の旦の越神社に合祀してありました。旦の越神社境内の由緒書きに明記されていました。 大変うれしく感じた次第です。諏訪信仰の痕跡がちゃんとあり、そして生きているのです。
 犬山の話をします。犬山ライン大橋の北詰から犬山城をみると、城の右手に小高い森というか山が視界に入ります。 今は“犬山丸の内緑地”といっています。天和5年(1681)の尾張国犬山城絵図には三光寺山と記されています。 ところが大変ビックリしたというか、なるほどそうだったんかということがありました。
 犬山城の第一駐車場の南縁に、「三光寺御殿跡」という発掘成果を報告した説明板が立っています。 三光寺御殿の三光寺は、この山の名前に由来していることは分かります。 この文中に、三光寺山は三狐尾神山さんこおじんさんと以前は云っていたことが書いてあるのです。 柳田國男の『石神』の説明で、三狐神の名前を上げました。 三狐神が三狐尾神への転換・転移は容易く考えられることです。 このことを思うと、実業界で三光何某という会社名等には、このような歴史的な意味があるのだなあと思いを新たにいたします。 そして今、三光稲荷として、ハート形の縁起物とともに若いひと達に生きていることは大変オモシロいことのように思えます。
*1) 藤森栄一(1911〜1973)
長野県諏訪市の生まれ。長野県考古学会会長。在野の考古学者。 井戸尻遺跡の調査結果を踏まえ、縄文農耕論を唱える。
*2)諏訪上社の神職五官
神職は代々世襲制で、明治期の廃止まで続いていた。
・神長官(じんちょうかん):守矢氏で上社五官の筆頭
・禰宜大夫(ねぎだゆう):守屋氏
・権祝(ごんのほふり):矢島氏
・擬祝(こりのほふり):伊藤氏
・副祝(そえのほふり):長坂氏

8.各務原台地の鼻《大牧台地》と古墳

 九州の阿蘇山の周辺を旅行で巡っていた時、バスガイドさんが 「この辺りでは台地の突き出た所を“鼻”といいます。」といわれた記憶があります。 オモシロイ言い方をするものだなと感心したので覚えています。
 各務原台地の南縁で特に気を引くのは、この陵南小学校のある大牧台地です。 各務原台地が親台地とすればこの大牧台地は子台地といったらよいのか。各務原台地からみると正に鼻なのです。

各務原台地(クリックで大牧台地周辺を拡大
(国土地理院、基盤地図情報,数値標高モデル5mメッシュより)

 「各務野ヒストリー探検MAP」のふな塚古墳の記載箇所から、 西北方向へ河岸段丘の線がみごとなくらいに綺麗に曲線をえがいているので一段と気が惹かれるのでしょう。 木曽川街道を西から東へ車で移動する時、愛知製鋼を過ぎる辺りから綾南小学校の白い校舎がまばゆくみえるときがあります。

大牧1号古墳(陵南小学校内)

大牧1号古墳の説明板

 数年前、この近辺を歩く、数拾人規模の歴史散策に参加しました。 大牧一号古墳はこんな高い所(標高が高い)にある古墳の主は、地域の有力者だろうとか、 ふな塚古墳はほとんど当初の様子が想像できないくらいに土が抉られ取られてしまっていたが (特に前方部と後円部の一番高い部分)、当初に近い古墳の全景が、丸石で覆い尽くされた写真が大変印象的だったことを覚えています。 あの石(直径20〜30p)はどこへ行ってしまったんだろうか?
 あらためてこの地を訪ねると、この台地の変化に富んだ地形に興味が湧いてくるのです。 私が全くの平地、後背湿地の元田園地帯に住んでいるからだろうか。近在の起伏といったら、 旧集落の自然堤防といえるちょっとした地面の高まりが有る位のものです。
大牧台地は、
  1. @

    北大牧山(陵南小学校)と南大牧山(大牧団地)があり、それぞれが独立丘陵となっているということ。

  2. A

    この地区の古墳が元は80基近くあったこと。

  3. B

    陵南小学校の校庭南縁の崖の高さが、10メートル近くあると思える位の高台になっているということ。

驚くことばかりでした。

【大牧古墳群分布図】
(大牧古墳群A地区発掘調査報告書より)

ふな塚古墳遠景(陵南小学校から西を見る)

 平成17年2月発行の「大牧古墳群発掘調査報告書」で、『第3図。大牧古墳群分布図』を見てより思いを強くしたことがあります。 造られた場所のことです。 大牧一号古墳の造られた場所は、北大牧山の陵南小学校西正門から東へ50メートル程の所 (海抜52m/小学校に標高表示有り)で地域の有力者の墓なのでなるほどと合点が行きます。 そして、南大牧山(大牧団地)にあっただろう30近くの古墳もなるほどと頷けます。 山の上ですから。しかし、4号墳であるふな塚古墳や5、7,9号墳や 第4支群の7基は、意外と低い所に造られているのが腑に落ちないのです。 ふな塚古墳の東の南北道路から大牧団地を眺めると、団地へ上がる道が坂になって登り道なのです。 木曽川の洪水があったらこの古墳はすぐ流失するだろうからです。 ふな塚古墳はなぜ残ったのだろうか?不思議なことだと思うのです。
 Bの河岸段丘について、前記調査報告書は次のように記している。
「低位段丘と4〜10メートルの比高差を有し急峻な崖線を形成している」
眩しい位、高地に陵南小学校があるのを感じます。

長良川リバーサイド道路から南東に広がる河岸段丘

 岐阜市内で、このような見事な河岸段丘を見せてくれる所は、岩田西3丁目です。 長良川リバーサイド道路から国道156号線にむかって進むと、長良川とのせめぎ合いで出来た段丘面を見せてくれます。
 各務原台地の東(60m)と西(20m)の比高差が40メートルもあること。 この話を聞いただけでは特別実感を伴わないのだろうゆえかあまり驚きません。 しかし、鵜沼真名越2、3丁目(嫁振り坂辺り)や鵜沼小伊木3丁目の崖線はみごとな台地のちからを感じさせてくれます。 那加新加納ちかくの浜見坂と嫁振り坂を比較しながら、そしてこの大牧台地の鼻を同時に見ると、 更なる台地の力を感ずることになるでしょう。

ちょっとひと休み! 地名のはなし(岐阜編)
〜電柱に昔の地名や字名が隠れています

マルサンガレージ(旧浅野屋)

大正町、斜めの道

 岐阜市の西柳ヶ瀬通り(平和通から西へ向かった通り)は、かって大門通といいました。
『岐阜市史 資料編 近代二』の266頁に、金津遊郭の見取図(図-1)が掲載されています。 そこには西柳ヶ瀬通りは大門通と、そして遊郭最大の妓楼の浅野屋を始め約60軒弱の妓楼が描かれています。 図-1 からは少し外れてしまっていますが、グランベール岐山(図-2 の左下)の前身は金津病院です。
そのグランベール岐山の西玄関に接した斜めの道は、何故斜めなんだろう?
それは、この道が忠節用水(大正川)を暗渠にして造られた公道だからだったようです。

図-1 金津遊郭の見取図(『岐阜市史 資料編 近代二』より)

図-2 西柳ヶ瀬通り周辺地図(Googleより)/図-1 と対比

西柳ヶ瀬通り

金神社の御旅所

西柳ヶ瀬通りから大正町に向う道の電柱

 この斜めの道の電柱をよくよくみると、NTTの電柱番号札に「大門」と記されています。 ああ!このあたりに遊郭があったんだなあということが窺えます。 (右の写真をクリックすると、アップにした番号札が表示されます)

 このように電柱番号札の表記には、その地の失われた地名や建物の名前などが稀に残されているのです。
また、高架になった鉄道などの橋脚*)にも同様な発見に出会うことがあります。
下の地図(図-3)の赤字は、旧町名や字名です。 (地図上からクリックすれば写真が表示されます)

図-3 岐阜市内の地図(Googleより)/赤枠を拡大した範囲が図-2

 清本町1丁目の電柱には、旧字名の「野溝」が書かれています。 野溝ですから、正に野の溝です。湿地帯になっていたのを表わしているのだと思います。 此の辺りは、旧中山道、南100m余りの所です。そして長良川扇状地の、正に扇端の地でもあるのです。 かつては自噴水があちらこちらに出ていました。 菊地町3丁目の電柱の「上沼」も水がわき出るため湿地帯を表わす旧字名です。
 また、JR東海道本線の橋脚に見られる「溝畑」や「荒屋」も旧字名で、「森屋」は本荘の旧町名です。
*)鉄道橋の用途別区分 ‖ 青字は「道」の高架の場合
・橋りょう(B) ‖ 橋(Br)
  川や海を渡るための橋。
「梁」は常用漢字でないため、正式文書ではひらがなで表記される。
・線路橋(Bi) ‖ 跨線橋(Bo)
  鉄道の線路を渡るための橋。
・架道橋(Bv) ‖ 跨道橋(OV)
  道路を渡るための橋。
・高架橋(B) ‖ 高架橋(VA)
  特に渡る目的はなく、必要があって高架になっているところ。



web拍手 by FC2 よろしければ、この拍手ボタンを押して下さい(書込みもできます)

▲ページ先頭へ
TopPage
inserted by FC2 system