Calture

UpDate/2017/7/28


各務原風土記
安田 修司

赤枠の写真はクリックで拡大表示されます。
(カーソルが「プラスルーペ(拡大)」に変わります)

1.権現山トンネルから思うこと

権現山トンネル/東海北陸自動車道上り高速バス停付近より撮影2017/6/27

神明神社入口

境内に祀られた権現山神社

本殿と乃木大将像

 岐阜から高山へ高速道路で行こうとすると、各務原インターから北上して、尾崎団地の手前でトンネルに入ります。 権現山トンネルです。長さが1400m位なのでアッという間に岩滝方面に出ます。さて、そのトンネルの名前です。 権現山という名がついているので、改めて各務原市の地図を見ますと権現山(208m)という名の山の頂上真下を通過していることに気が付きます。 どうして権現山という名の山があるのだろうか?いささか調べてみたくなりました。
 『各務原市の地名』*1)という本が図書館に有り、やはり書いてありました。
「東海北陸自動車道が貫通する以前、この山の頂上に富士神社(権現様)が祀られていました。 今は、那加西市場の神明神社(夢蔵という蕎麦屋さんの西)に合祀されました。・・・・」
しかし、これは大変おもしろいことです。 岐阜市内に住んでいるものにとって、権現山といえば、ある程度齢を重ねた人たちはあの権現山かといって時の鐘の権現山というだろう。 そして、今、ほとんど忘れ去られてしまった東照宮(徳川家康公)が祀れていたことによることもはるか昔のことになってしまった。 何故この山にあったかって? 麓に尾張藩の岐阜奉行所があったからでしょう。

岐阜市権現山の「時の鐘」

芥見の山火事

 もう何年経つだろうか。岐阜市内の芥見で山火事がありました*2)。 確か、権現山といっていた記憶です。 これも気になったものですから、芥見の郷土史を見ていたら、頂上に吉野神社が祀られていましたとの記述がありました。 明治以前の古き時代には、蔵王権現(ざおうごんげん)と呼ばれていた神様のことです。
 4月は各神社の春の祭礼があります。 岐阜市内の北一色で、白山神社の恒例餅投げが縁起ものとして挙行されていました。 拝殿近くには、幟が数本立っていました。白山権現大菩薩でしたかね。ここも権現ですね。 聞いたりして調べたら、本殿の背後の山が権現山というらしい。そして、この白山神社の奥ノ院がこの山の上に祀られているという。 そういえば、昨年のNHK大河ドラマ、真田丸のシーンで真田昌幸が白山権現の掛け軸の前でいろいろ相談ごとをしていました。 多用な意味と精神的深さと身近さを持った権現ということば・世界を簡単に忘却のかなたへやっていいのだろうか。 トンネルの名称、山の名前、神社の名称の変遷をかみしめてみることも大事なことだと思う。
*1) 『各務原市の地名』
各務原市歴史民俗資料館『各務原市資料調査報告書第14号』1991/3

*2) 芥見の山火事
平成14年(2002)4月5日 午後1時25分ごろ発生し、翌6日午後4時30分の鎮火

2.蘇原三柿野町辺り

 地図上の各務原台地で気になる箇所の一つが、蘇原ろっけん通り近辺に有ります。 蘇原ろっけん通りとは、蘇原中央通りと重なります。

各務原市蘇原三柿野町周辺地図/国土地理院標高図より合成

各務野ヒストリー探検マップ

この蘇原ろっけん通りを主軸として、交差する東西の道路が、扇形の羽を広げたようにそれぞれ傾いています。 西方は20度、東方は45度、それぞれ北に上がっています。 現地へいくと、台地の谷筋がそのようになっているので道がこのようになっているのだということが実感できた次第です。 そして、改めて、何度も「各務野ヒストリー・探検マップ(各務原市歴史民俗資料館発行)」を見つめていますと、 そして現地へ行くと、この台地の鋭く切れ込んだ谷に、台地の不思議な力と働きを感ぜずにはおきませんでした。
 この谷筋には、西に蘇原第二小学校、東には長者稲荷大明神(谷筋から少し上がり気味の傾斜地)・柿沢公園がありました。 台地の不思議な力、ダイナミックな働きを感ずる場所ですね。これに似た谷筋は、もう一か所市役所の北方に、地図上から推測されます。

蘇原ろっけん通りを北から

蘇原第二小学校東の通りを南から

 さて、この蘇原ろっけん通りの一部町名は三柿野町といいます。この町名は、明治7年に @三滝新田 A柿沢村 B野村が合併して各務郡三柿野村が出来たと各務原の歴史に記されていました。 @の三とAの柿とBの野を合わせて三柿野というわけですね。 @は、蘇原六軒町1〜4丁目、Aはいわゆる柿沢町を中心とした地域。 Bは官有無番地とあるので、航空自衛隊岐阜基地となってしまったところの一部と思われます。
 この@の三滝新田は、元禄15年(1702)頃にこの辺り「三か村入会地」(西市場村・桐野村・岩地村)開発に尽力した町人(町人請負新田)の 名前が隠れていました。美濃中山道加納宿の脇本陣三宅佐兵衛の三と同加納宿脇本陣の滝屋(森)孫作の滝に由来します。
 開発は難儀を極め、最終的にはその開発は半分くらいしか出来なかったようです。 そして、明治になってからその土地の権利を放棄したと聞きました。  加納町史下巻に、江戸前期の人物で森永孝(孫作)が掲載されていました。 「和歌に長じ、加納宿西郊の名木、往来の松を賞した和歌・詩を集録して詩集の巻冊を作った」とあります。 また、仏教心厚く、「赤穂網干の盤珪禅師を招じて、羽島郡小佐野村に金竜寺を創建しました。」とあり、 加納藩が全国的にも最も文化的に充実していた時代背景(加納藩戸田光永・戸田光煕七万石)による社会事業だと思われる。

3.木曽川旧河道の進展と足近川あじかがわ

 手元に、通説木曽川洪水により河道が変わったという天正14年以前の木曽川河道を描いた資料が3枚あります。列記します。
  1. 各務原市歴史民俗資料館発行の各務野ヒストリー探検MAP2013

    紫色で旧河道を表示。但し、各務原市内のみの記入

  2. 木曽川学研究協議会発行の機関誌『木曽川学研究』各号の表紙の裏面

    昔の木曽川の流れとして天正14年以前の木曽川が黄色で表示されています。
    勿論、松本町から岐阜市茶屋新田までその流域が黄色表示してあります。

  3. 笠松町発行の郷土史『ふるさと笠松』P60 図2-7【旧木曽川流路】1983/11

    但し、大佐野から笠松町門間までしか描かれていません

【下図木曽川旧河道の色区分】
:@、 :A、 :B、 :@+A、 :A+B
各資料を元にフリーハンドで描き加えているため、厳密的な各河道の領域の精度は、余りありません。
▼クリックすると、縮小した全体図が表示されます

各務原台地西部から長良川までの木曽川旧河道
(ベースの標高図は国土地理院、基盤地図情報,数値標高モデル5mメッシュより加工)

 では、つぶさに見ていきたいと思います。@とAの決定的な違いは、松本町から西北方向に旧河道が 動いているのは同じなのですが、上中屋町交差点(各務原大橋の北詰交差点からみて直ぐ北の交差点 ・当該交差点の西北にはファミリーマート)辺りから西北方面と西方面とに分流していることです。@は分流しAは分流していません。

上戸町コンビニより東を望む(2017/7/9)

 上中屋町交差点から北方面に急激に地面が下がっているのはその証左でしょう。 また、稲羽中学校の南境と上中屋町3・4丁目集落とのあいだの田んぼ地帯はその痕跡だということです。 400年以上前のことです。写真は、上戸町1丁目辺りからのものです。
後日、この上戸町周辺の河道跡とされる地域で撮影を行いました。
(2017/7/19)
下の地図での撮影地点(矢印)をクリックすると、写真が表示されます。
その写真には、河道と思われる一帯を薄い青色で示しています。
また、印は上の写真の撮影地点です。

上戸町周辺の標高図(国土地理院、基盤地図情報,数値標高モデル5mメッシュより)

 この足近川、秀吉の竹鼻城水攻めでその名が知られた川です。 豊臣秀吉は天正12年(1584)3月から4月にかけて小牧・長久手の戦いで家康に惨敗した。 大阪に帰る途、家康を誘き寄せるためか5月にこの竹鼻で水攻めの土塁を数日で造り城の水攻めを断行しました。 太閤山という史跡があります。(羽島市間島)
 大変興味深い本があります。
  榎原雅治著『中世の東海道を行く』中公新書/2008/4月*)
鎌倉時代に京都から鎌倉への貴族の旅行でその紀行文です。 著書によると、勿論断定ではありませんが、足近川が旧木曽川の支流ではなくこの時の木曽川本流かもしれないとか、 今の木曽川を及川といっていたかもしれないというものです。 興味のある方は一読されると良いかと思います。 目次より興味ありそうな項目を列記します。
第二章 乱流地帯をいく――美濃
木曽三川
  • 三つの川
  • 杭瀬川・墨俣川
  • 天正14年の木曽川洪水説
  • 「木曽川」、天正12年
  • 足近川=中世木曽川
木曽川の誕生
  • 木曽川の流路変化
  • 流路変更と地殻変動
    
*) 『中世の東海道を行く』――京から鎌倉へ、旅路の風景
 本書では、中世の旅人が記した文字資料に忠実に地図を描いていくとどうなるか、 あるいは江戸時代以降につくられたことがはっきりしている風景や地形を取り去っていくと、 それ以前の姿がどのように現れてくるかを考えてみたい。 きわめて素朴な問いと試みであるが、あるいは歴史学、文学、地理学、地質学のはざまで、 これまで意外と軽視されてきた問題ではないかと思う。 そしてまた、そこで明らかになる東海の風景は、ひとり東海のみならず、かつての日本列島の随所で見られた風景であるかもしれない。
(本著「はじめに」より抜粋)

榎原 雅治 (えばら まさはる)
昭和32年(1957)、岡山県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。東京大学史料編纂所助手、同助教授を経て、同教授
(本書が刊行された当時の紹介文より)

4.各務原台地の亀裂?と野川

 各務野ヒストリー探検MAPを凝視していますと、渓をイメージさせる所が2か所あります。紺色が少し濃い色で表示された箇所です。 一か所はすでに、ろっけん通りとか蘇原第二小学校の説明で述べました。もう一か所が今回のテーマです。
 現地に立つと、ああ!各務原台地には大きな台地の亀裂の痕跡があるんだなあと。たどってみましょう。

各務原西部/新境川に注ぐ水路
(国土地理院、基盤地図情報,数値標高モデル5mメッシュより改変)

写真-1 町域の境界を流れる水路

写真-2 信長公園南西角から川を撮影

写真-3 信長公園西側の通り

写真-4 那加桜町3丁目

 那加バイパス(国道21号線)で蘇原三柿野町という交差点の南方一帯は、勿論航空自衛隊岐阜基地の敷地内です。 市販の地図には、「百曲り水路」という川らしきものがあります。その水路の水の一部が那加バイパスの道路下を潜って北側に出て西進しています。 蘇原三柿野町と那加桐野外二ヶ所入会地、両町の境の川(写真-1)となっているわけです。 そして、この幅1m足らずの川(この辺りは特に狭い)に向かって、近辺の土地がほとんど傾斜して坂となっているのです。 具体的にいえば、六軒神明神社の交差点、すなわち、その交差点の那加メインロードから少し南方面へ歩くと直ぐ道路がどんどん下がっていきます。 この小さな川を中心として浅い凹地を形成しているのです。この傾斜は只事ではでありありません。 かって、この川の今の川幅の5倍以上はあっただろう川であった可能性を窺うことができましょう。 1〜2m足らずの川幅の川(下流へ少しずつ川幅が広くなります)に水を押し込めてしまったのかもしれません。 では次に移動しましょう。信長公園(那加信長町三丁目)の南縁に沿って西北方向へこの川(写真-2)は流れています。 公園の南側は、川の縁の草木で鬱蒼としており水が深ければ河童でも出そうな所です。 昼間でも薄暗い所です。信長公園の西の南北道を写真に撮りました(写真-3)。ものすごい坂地形ですね。 次ぎ織田信長公園の南です。この辺りも川幅はほとんど変わりません。 そしてこの川に向かって急坂になっているのは、北からも、南からもです。 少し西向きにながれ、いよいよ名鉄各務原線・JR高山本線の下を潜って通称ユーエス通りの道路下をとり那加桜町3丁目(写真-4)を北上しながら、 桜丘中学校のグランド南端を経て新境川へ注いています。 この川の名前を何と呼ぶのだろうか。信長公園の近くにお住いの方に聞きました。
「私はよそからこちらへ来た者ですのでわかりません。普通の、排水路ではないですか?」
別稿でふれた蘇原ろっけん通りを横断している谷筋は、市販の地図や住宅地図には巾下都市下水路という名称記入があるものの、 「蘇原の歴史」という昭和59年3月発行の郷土史の付録にある蘇原町全図にはそれらしき川の名はありません。 しかし、本稿の川名、書いてありました。『各務原今昔史(那加村)』大正15年10月発行に「野川」と明記されていました。 『各務原の地名』という本にも野川(P84)がありました。川の名前を忘れてはいけないと思います。

 「行到水窮處」―水は低き所を流れ、より低き所へ移動する―
これは禅語です。 今日、線状降水滞による時間降雨量120ミリというのを聞きます。他人事ではないと思います。 先般の五条川の氾濫(2017/7/15)についても、もう少し川幅があったらなという話を聞きました。 改修前の川幅はもっとあったように思えました。 愛知県の江南市や扶桑町を歩くと、青木川や般若川がその近辺の地形から察すると大変川幅を狭くしたのを感じます。 自分の住んでいる所はどんなところか、どういうリスクをもっているのか、他所と比して土地の標高が高いのか、低いのか、 土地の秘められた履歴を知ることは極めて大切なことだと思います。

5.藩塀はんぺいとその背景についての私見

伊木山麓「熊野神社」の藩塀

 鵜沼伊木山の麓を、ウォーキング大会で歩いた時の体験です。 無住のお寺、観音寺の前をよぎって参道の極まった所に熊野神社がありました。 この神社の、石造りの藩塀に大変驚き、感動の念が起きたことを覚えております。 これは何だ!拝殿の前に立ちふさがって、拝殿や本殿を直接見れないように、 神様への畏れ多い気持ちの表れからこのような構築物を造ったのだろうかと思いました。
 小生、岐阜市内に在住のものです。近在にある神社は、概ね参拝したつもりです。 この藩塀と思しきものは、いまだかって見たことがありません。
この時、勿論この社殿の一建造物である藩塀という認識はありませんでした。

鵜沼羽場町「津島神社」の附藩塀

六軒「神明神社」の藩塀

 その後、徐々に各務原市内の神社を意識して参拝しておりますと、鵜沼羽場町の津島神社に出会うことになりました。 鵜沼福祉センターの直ぐ東にある神社です。 当神社拝殿の南に農村歌舞伎の舞台皆楽座があり東西道路との間に立派な木造の藩塀があります。 そして、舞台皆楽座の東北角に皆楽座の説明をした標柱があるものの、“附藩塀”とのみの但し書き記述だけではいかにもさびしいと思う。 しかし、この附藩塀により固有名詞を知った次第です。 最初、何かおかしな名だなあ!と思いましたので漢和辞典で藩を調べました。 藩には、かきねとかおおいという意味があるのでなるほどと納得しました。
 藩塀について、神社に関係した単行本の一般書物で、神社の構造の項を数冊調べてみました。 この藩塀に言及した本はありませんでした。 要するに、一般的な構造物ではないから掲載されていないということなのでしょう。
 犬山市立図書館に用向きがあった時、何気なく『小牧の神社*1)』という 本を見ておりましたら、第三遍境内の探訪にその藩塀の記述がありました。以下その項を全文引用します。
 参道を進むと、拝殿まえに立ちふさがるようにある短い塀が「蕃塀(ばんぺい)」である。 ただし、伊勢神宮の南面蕃塀は、参道の御正宮の反対側の縁にあり、決して内部を覆い隠す形になっていない。 一方、愛知県内の蕃塀は、本殿の中心線上で正面に平行してあり、参拝者を遮断する形となっている。 こうした、配置の特徴から、本殿を直視しない(できない)ようにするためとか、 不浄なものの侵入を防ぐために造られたと考えられることが多いようだが、正確な目的は不明である。 その規模や形状から、様々に分類される。中でも、蕃塀の中央に連子窓と呼ばれる細い柱状の 材を均等に並べた窓を持つ「連子窓型蕃塀」と連子窓を持たない「衝立型蕃塀」に大別される。 愛知県下では圧倒的に連子窓型蕃塀が多く、衝立型蕃塀は少ない。 また、材質は木造と石造などの種類があり、当初は木造連子窓型蕃塀であったのが石造連子窓型蕃塀に変化していったと考えられる。
 もう一つ、手元に「一宮の神社、探索体験談*2)」という資料があります。 そのなかで、当該蕃塀について以下のように記述されています。
 「不浄除け(他の呼称:蕃塀、透かし垣)
 これは尾北地方の神社に特有の建築物らしい。 呼称については色々あるようだが、ある神社で教えてもらった。「不浄除け」を採用した。 これには決まった形式はないようで神社ごとに色々あり、興味深い。不浄除けの実例を示す。  大毛神社(大毛五百入塚)、坂出神社(佐千原宮東)透かし垣(不浄除け)と書いた看板がある。
 以上、二つの資料を吟味すると様々なことが見えてきます。
  1. @

    藩塀(はんぺい)と蕃塀(ばんぺい)。

  2. A

    藩塀の有無についての広がり状況を、“愛知県内の藩塀は”といういい方には愛知県外にもありますというのが 隠されているということか。そして、“尾北地方の神社に特有の建築物らしい。”

  3. B

    連子窓型蕃塀と衝立型蕃塀という形式と決まった形式はない等。

 @については今回は特に言及しません。漢字の相違と読み方の違いです。 私に興味が注がれるのは、Aの問題です。 当該神社の構築物である藩塀の分布状況については、専門の民俗学者が調べたかもしれません。 私が知らないだけだろうと思います。いたし方ありません。 今は手元の情報と、私が実際歩いた限られた情報から推量します。

笠松町東米野「日枝神社」の藩塀

川島町笠田「白髭神社」の藩塀

 先ほど述べたように、岐阜市内には全くありません。 笠松町東米野で日枝神社の石造藩塀が一番西に位置するものだと理解しています。 川島町笠田の白髭神社の木造藩塀は大変立派なものです。 勿論鵜沼地区にも相当数確認できました。(鵜沼地区全部の神社にあった訳ではありません) 細かくは言及いたしません。 そして、愛知県の犬山市、扶桑町、大口町、一宮市、小牧市等、実際歩いたり、 自動車で移動したときに散見したものの印象から思ったことがありますので以下述べてみたいと思います。
 独断と偏見かもしれません。結論を先にします。 尾北地方に多く見られる神社の一構築物、社殿の一つである藩塀は、尾張初代藩主、徳川義直の敬神思想に由来するものだろう。 そして、傅役であった成瀬正成・竹腰正信に受け継がれ、特にこの地方(尾張の北部)に、 その痕跡として神を敬う心の結実したものとしての、藩塀があるのだろう。
 もう少し詳しく見てみよう。『徳川義直公と尾張学*3)』という冊子にこんなことが書いてあります。
かくして義直の礼節・敬神・国史尊重は、遂に勤皇の大義に結実した。……
この件は、要を得ています。 この中で勤皇の大義と敬神について以下触れます。

藩訓秘伝之跡

 名古屋城二之丸広場の南端に大きな石碑(高さが1.8m位)があります。
 「王命に依って催さるる事」
(藩訓秘伝之跡)
石碑の際に、藩訓秘伝の碑の説明版があります。 この碑文は、初代藩主徳川義直の直撰 軍書合鑑の中にある一項の題目で、勤皇の精神について述べている。 歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し、明治維新にあたっては親藩であったのに、勤王帰一を表明したといわれている。この碑の位置は二之丸御殿跡である。” 幕末の尾張藩主、徳川慶勝がこの精神を引き継いていたといわれている。 錦の御旗を掲げた薩長連合軍が、こともなく東海道を東進できたのはまさに尾張の尊王思想に由るものといわれる。
 徳川義直の略歴を調べると、書物の撰述・編纂にも大変熱心な方であることが分かります。 特にこの場合に注目すべきは、『神祇宝典9冊一帖*4)』です。 この書物は、正保3年(1646)に完成したもので、 全国の主要な由緒ある神社を国別に列挙して、その所在・祭神・由緒などを明らかにしたものです。 これは義直の教養と敬神思想を示す資料で、義直自筆とみられる部分もあるとのことです。
 義直の勤皇思想の元は、敬神思想に由来するものだろう。

*1)『小牧の神社』 小牧市教育委員会編集。 2011/12

*2)『一宮の神社、探索体験談』
石井敏明:一宮観光まちづくりゼミ資料 2016/6/18

*3)『徳川義直公と尾張学』 名古屋市編集。 1943/10

*4)『神祇宝典』9冊・神器図一帖 尾張藩主徳川義直編。1646撰

愛知県図書館デジタルライブラリー

6.悟渓宗頓ごけいそうとん *1) と大安寺

写真-1 大安寺、楼門をくぐって薬医門を望む

楼門は下層に屋根のない二階建ての門で、二階には大抵高欄つきの回縁がある。また、 薬医門は棟門を倒おれにくいように本柱の後方に控柱を加えた門。

写真-2 大安寺、土岐頼益と斉藤利永の墓

 鵜沼大安寺町に、寺の名前が町名になった程の大寺院であった、臨済宗妙心寺派の大安寺(写真-1)があります。 大安寺川という寺名の川も有ります。
 この寺院の開基は土岐頼益よります *2) といい、 美濃国第6代の守護でした。境内には土岐頼益と守護代斉藤利永の墓(写真-2)があります。 以前は、本堂の近くに埋もれていたと聞いています。 関係者のご苦労で現在は、駐車場から階段を上がった少し小高くなった場所に並んで建っています。 最初から並べられて建っていたのかはよくわかりません。守護と守護代ですから。
 さて、『鵜沼の歴史』
(栗木謙二著、昭和41年12月発行)
という郷土史本にこんなことが書いてありました。 大変興味深い内容のものです。後日、他の郷土史でもこの内容文を見ました。
 応仁元年(1467)、悟渓宗頓は尾張国犬山の瑞泉寺に住んでいたが、 秋に鵜沼の大安寺に詣って斉藤利永(大功宗輔)の墓にぬかずき、次いで利永の子、 斉藤妙椿みょうちんを訪ねる途中、 金華山の南麓に天台廃寺の跡を見、ここに寺を建てようと妙椿に諮ります。 利永と悟渓は旧知の仲でしたので、妙椿は寺の創建を快諾し直ちに着工して五年で堂坊を整えます。

写真-3 瑞龍寺の総門

写真-4 瑞龍寺、虎穴塔(悟渓宗頓之墓)

写真-5 瑞泉寺の本堂とイヌマキ

写真-6 瑞泉寺の三門

 建てようとした寺とは、岐阜市寺町にある瑞龍寺ずいりょうじ(写真-3)のことです。 瑞龍寺の典座寮西側に、美濃国第8代守護土岐成頼しげより *3) と守護代斉藤妙椿の墓が並んでいます。 歴史学者は、土岐成頼は応仁の乱のためほとんど京都にいたので、 その留守を預かっていた妙椿は上司の意をよく汲んで美濃国を堅固に守ったという。 そういう理由から墓は仲良く並んでいるという。 本当かしら?当寺の総門の際に、悟渓宗頓の墓があります。 墓を虎穴塔こけつとう(写真-4)といいます。
 さて、悟渓宗頓は瑞泉寺に住んでいたと記されていましたが、 実際この時は、瑞泉寺の直ぐ南の臥龍庵に居住していたといいます。 それはさておき、瑞泉寺の境内地にすばらしい巨木があります(写真-5)。 イヌマキの雄株で樹高9.2m、胴回り150p、樹齢は伝承600年というので応永年間(1400年頃)ですので、 この寺が建てられたときこの木はあったということかな。 マキノキはなかなか大きくならないといわれるが、この木を見ると成る程と思う。 この樹は、悟渓宗頓のことをよく知っているのだろう。 応仁の乱の頃、京都妙心寺が壊滅な状況になった時、京都妙心寺の仮本山となったことがあるくらいに格式の高い寺院でした。
 話は現代の話です。瑞泉寺は、毎週日曜日午前8時〜10時に禅堂で座禅会をおこなっているという。 どなたでも参加でき、費用は無料です。瑞龍寺は、第1、3日曜日の午前6時〜9時に禅堂で座禅会が行われ、 瑞泉寺と同様、どなたでも参加でき、費用は無料です。
 今年は、臨済宗妙心寺派の白隠慧鶴はくいん えかく 禅師*4) 二百五十年遠忌記念の年。 白隠さんの時代には瑞泉寺や瑞龍寺のような専門道場(よって拝観禁止になっています)という制度はなかったと聞きます。 白隠さんは、全国の寺々を巡って修行をし特に20代には美濃地方の禅寺にも掛塔している。 勿論、室町時代の悟渓宗頓の時代も注釈*1)のように「その高弟禅師達の許を訪ね修行を重ねた」とあるがごときです。
 悟渓宗頓は、愛知県丹羽郡扶桑町(山名村)の生まれで、生誕地は悟渓寺となっているが、 人呼んでこの地は悟渓屋敷と呼ばれている。 山名小学校の校歌にも、
悟渓の禅師が産声は今も聞こゆる心地して誠の道をたどりつつ進むわれらに力あり
と歌われています。昨年は12月に、扶桑文化会館で国師悟渓宗頓禅師生誕600年記念祭が行われました。
   
 (創建)(開基)(所在地)
大安寺 応永 2年 (1395) 土岐頼益  
各務原市鵜沼大安寺町1−11
瑞泉寺 応永22年(1415) 日峰宗舜  
犬山市犬山瑞泉寺7
瑞龍寺 応仁 2年 (1468) 斉藤妙椿  
岐阜市寺町19

 或る禅宗の寺院のまえを通りました。掲示版にこんなことが書いてありました。
外を見る者は夢を語り、内を見る者は目覚める
うううuuu・・・・・・・・・思わず唸りました。
*1) 悟渓宗頓〔ごけいそうとん〕(1416〜1500)
山名村に生まれる。父母の氏素性、生誕地は不明とされる。 幼少より非凡な才を示し、小釈迦といわれ、得度して犬山・瑞泉寺に入り日峰禅師の許で修行する。 師が妙心寺再興の勅命受け上京され、跡を追い修行に励む。 師のなき後も、その高弟禅師の許を訪ね修行を重ねた。50才で龍安寺・雪江禅師より「悟渓」の院号を授かる。 以後、「徳の悟渓」と慕われ、岐阜・瑞龍寺の開山や応仁の乱で荒廃した妙心寺・大徳寺ほか各地の寺の再興に尽力する。 [妙心寺の住職になったのは文明13年(1481)] 明応6年(1497)にはそうした功績により生前、後土御門天皇より「大興心宗禅師」の諡号を賜り、 明応9年(1500) 瑞龍寺にて死去。嘉永元年(1848)350遠忌にあたり孝明天皇より「佛徳廣通国師」の号を賜る。

(悟渓宗頓「虎穴録」より)

*2) 土岐頼益〔ときよります〕(1351〜1414)
美濃国の守護。3代将軍足利義満の頃、当時伊勢と美濃の守護であった土岐康行が乱を起こした時、 父頼忠と頼益は幕府軍に味方して勝利し、父頼忠が美濃の守護に任じられ土岐一族の筆頭となる。 父の後を継いで守護となった頼益は文武に優れ、幕閣でも重要な地位を得ることとなるが、 美濃国内では土岐一族の反乱を鎮圧したものの、古くからの土着の一族の不満を抱えていた。 そうした国内を守護代として統治を任せていたのが斎藤利永だった。
*3) 土岐成頼〔ときしげより〕(1442〜1497)
室町から戦国時代にかけての美濃の守護大名。土岐頼益の子持益の養子で実父は諸説ある。 養子となる際に8代将軍足利義政から「成」の1字を与えられて成頼と名乗った。 義父持益には、子は早死であったが孫がいた。 しかし、当時の実力者、斎藤利永によって持益は隠居させられ成頼が守護となったのだった。

白隠慧鶴:「半身達磨」大分萬壽寺蔵

*4) 白隠慧鶴〔はくいんえかく〕(1686〜1769)
臨済宗中興の祖。駿河国原宿(現在の沼津市原)に生まれ、15歳で出家。諸国を行脚して修行を重ね、 42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成させたといわれている。この間、禅修行のやり過ぎで 「禅病」にかかったことがあり、その経験を生かして考案された「内観の秘法」はよく知られている。 地元駿河に帰って布教を続け、衰退気味の臨済宗を復興させ、 「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。
また、白隠が残した1万点にも及ぶ禅画が近年俄かに注目されている。 元々は禅の教えを広く民衆に広めようと描いた書画ではあるが、その独特の技法は、後の絵師や書家にも影響を与えた。


 


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