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UpDate/2016/09/25


  == Contents ==

T.仏塔の歴史
 
1) 仏塔の起源
 2) 仏塔の伝播
U.法隆寺五重塔の組立てと構造
V.現存する五重塔
W.五重塔と災害
 
1) 五重塔と地震
 2) 五重塔と台風
X.五重塔はなぜ倒れないか
 
1) 上田篤編『五重塔〜』
 2) だから倒れない
 3) 心柱の謎
参考文献

  何故、五重塔は倒壊しなかったのか


T.仏塔の歴史

1) 仏塔の起源


写真-1 サーンチー第三塔

 仏教が生まれたインドでは、「サンガラーマ」*1)という建物が信者らの修行の場でした。 そして、釈迦が亡くなると、その遺骨が納められた「ストゥーパ」*2)という墓標が各地に建てられました。 それらが中国に伝えられると「サンガラーマ」が「僧伽藍摩(そうぎゃらんま)」と漢訳され、後に「伽藍」と呼ばれ、 日本では寺院*3)や境内の寺院群の意味で使われるようになったのです。 そして、「ストゥーパ」は、「卒塔婆(そうとうば・そとば)」と漢訳され、塔婆、塔などと呼ばれるようになりました。 ストゥーパといえば、ラーイセーンの丘陵地にあるサーンチー村で発見された3つの塔*4)が有名で、世界文化遺産にも登録されています。
 また、ストゥーパの頂上に据えられているものを「傘蓋(さんがい)」*5)といいますが、これが日本などの仏塔の先端にある「相輪」*6)の起源ともいわれているのです。

図-1 相輪/(出典:参考文献-1)

*1)サンガラーマ
サンスクリット語で「
san
」は僧。「
garama
」は楽しむ所、または共同で暮らす所という意味です。
*2)ストゥーパ
サンスクリット語の「
stupa
」で元々は”積み上げる”とか”ものが堆積して高くなり目立つ”などの意味があります。
*3)寺
中国では、インドから招いた僧を、「鴻臚寺(こうろじ)」という、今でいう外務省のような役所に泊めました。 僧らは、そこを起点に布教活動をしました。そのことが「寺」の始まりといわれています。
*4)サーンチー第一〜第三塔
当初、釈迦の遺骨や棺などの仏舎利を八分し、容器に残った灰も併せて10カ所の地域にストゥーパが建てられました。 その後、紀元前3世紀のマウリヤ朝の時代に、アショーカ王がそれらを掘り出し、細かく砕いて分け、全土に8万4千ものストゥーパを建立したともいわれています。 しかし、仏教の衰退と共に塔は崩れ、焼け落ち、破壊されて、消え失せてしまったのでした。 ただ、サーンチーの丘は樹木でおおわれ 人々から忘れ去られたために、運よく残ったのだといわれています。
*5)傘蓋
傘蓋については、その塚の下に眠る釈迦を暑さから守るために立てられた日傘とも、 あるいは、当時の貴人のステータスでもあった「従者に大きな日よけの傘をかざさせて歩く」ことから、信者が寄進したものともいわれています。 サ−ンチー第三塔の傘蓋などは、いかにも傘らしく見えます。
*5)相輪
実際には露盤の上にある半球型の伏鉢がインド式ストゥーパで、その上の九輪が傘蓋とされています。
中国の塔の頂にあるそれは、伏鉢が大きく、全体に短いのでよくわかります。

2) 仏塔の伝播


写真-2 黄鶴楼(こうかくろう)/武漢(出典:Dice氏)

 西域を経て(北方ルート*1))中国に伝えられた仏教は後漢の時代に広まり、 当時の高層木造建築である楼閣の上にストゥーパを掲げるという、日本の五重塔の原型ともいわれる仏塔が建てられるようになりました。 その後、火災での焼失を避けるためにレンガ塔に変わっていきました。朝鮮半島でも石塔が主流となり、 木造の仏塔については、ほとんどが記録や遺跡でしか残っていません*2)。 また、古代より伝わる神仙思想*3)からか、中国では塔の中に人が入れて最上重まで上ることができます。
 日本に五重塔が最初に建てられたのは6世紀頃といわれています。 現存する最古の木造建築である法隆寺の五重塔が建てられたのはその百年ほど後*4)のことです。 この頃の日本建築は、古代からの軸組工法*5)に、中国の楼閣などに見られる組物や木組などの技術を取り入れ、 独自に発展しつつあるときであり、五重塔もそうした「伝統工法*6)」をベースに建てられてきたのでした。 ただ、一般の住宅に見られるような各階を貫く「通し柱」というものはなく、各層を積み上げていく構造であるいう点が異質なのでした。
その「積重ね構法」も時代と共に変化して、より複雑な構造になっていきす。
*1)北方ルートと南方ルートの原型
伏せ椀型から方形にした基壇を垂直に高くしたガンダーラのスタイルが中国などの仏塔の原型とされています。
一方、ミャンマーやカンボジアなどの東南アジアへの南方ルートでは、基壇を雛壇式に高くしたスリランカのスタイルが原型といわれています。 ミャンマーでは「パゴダ」と呼ばれ、円錐状で相輪の先端が尖っているのが特徴です。
*2)日本以外で残されている仏塔
法住寺の五重塔:朝鮮半島に唯一残る木造の五重塔。文禄・慶長の役での焼失後、1624年に再建されました。
応県木塔:中国山西省に残る九層の木造八角塔で高さは67mあります。
*3)神仙思想
高い場所には神が宿るという思想です。高い所へ登り、天と交わることによって不老長寿のご利益を期待し、高い塔を目指したのです。 神聖な場所という捉え方は、国によって大きく異なります。 日本では、原則、中に入れません。仏舎利が安置されている基壇に腰掛けることも許されないのです。

図-2 伝統工法と在来工法

*4)法隆寺五重塔の再建問題
法隆寺の建立は、推古15年(607)とされています。 その後、天智9年(670)に火災で焼失し、現在の塔は、その後に再建されたものだという説が明治20年頃に出されると、 これに異論を唱える学者との間で論争が起こり、凡そ50年程続きました。 この論争は一応、再建論に落ち着き、現在は木材の年輪分析などから7世紀後半の再建が確定されています。
*5)軸組工法
垂直材の柱と水平材の梁や桁などを構造体とする工法です。 これに対して2×4(ツーバイフォー)などで知られる「枠組工法」は壁や床などの面を構造体とする工法です。 縦横の軸で組んだ四角は平行四辺形に歪み易いが(剪断変形)、面で組んだ場合はは歪みません。だから枠組工法は「剛」な構造といわれます。
*6)伝統工法
大正に入ると、法律で建築物に対する最低基準が定められました。 それ以前の軸組工法を伝統工法、それ以後を在来工法と呼びます。 伝統工法は太い柱に孔をあけ部材(貫)を通したり、結合部分によって様々な凹みと凸を造作してはめ込む「木組」で構成されます。 基礎も自然石(束石)の上に柱を建てる礎石方式が一般的です。 こうして、ある程度の歪みや柱のズレ(並進運動)を許容することで地震などの衝撃を吸収することから「柔」な構造といわれています。 一方、筋かいや方づえなどの斜め材を使ったり(スパン効果)、結合部に金具を使ったり、 土台をコンクリート基礎にボルト固定したりと「剛」な構造にシフトした軸組工法が在来工法なのです。

図-3 法隆寺五重塔断面図

 次の項で取り上げる法隆寺五重塔は、下の重*)から順に組み上げていく典型的な初期の積重ね構法で、 すべてが構造上の役目を担った部材で構成されており、装飾用だけの部材は骨組みの中には全くありません。 その意味では、構造が解りやすいと思います。
 法隆寺は、明治時代から毎年のように調査、修理が行われてきましたが、昭和に入っていよいよ本格的な修理が開始されることになりました。 この昭和大修理(1934-1985)を棟梁として長年取り組まれてこられた西岡常一氏の著書『法隆寺』では、 飛鳥時代の再建の様子を分かりやすく、そして、当時の匠らの木材に対する深い愛情を思いやりながら述べられています。 そうした同著から、穂積和夫氏のイラスト(一部改変)を引用しながら、 組立て方を通して日本最古の木造の構造をみていきます。
*)「重」
一般に床の数を「階」、屋根の数を「重」または「層」といいます。 五重塔などは、原則、中には入れませんが、入れたとしても一階のみで、上には床はありません。 だから「五重一階建て」の建造物と呼べなくもありません。因みに姫路城は五重六階建てといわれます。


U.法隆寺五重塔の組立てと構造

(以下の図-4〜14‖出典:参考文献-1)

1) 心柱を立てる。


図-4 心柱の立ち上げ

図-5 基壇と立ち上がった心柱

 塔の中央に立てる心柱の長さは、およそ30mです。八角形の2本の部材をつないでつくります。 心柱に一本ものの木材が使用されていないのは、柱より倍以上に太く、真っすぐ長い原木を捜すのは大変であったし、 30mもの長さの柱を立てること自体が、かなり難しかったであろうことは容易に想像できます。
 先ず下側の一本目を立てます。大きく傾かないための足場を組んでから、先端に取り付けた滑車に縄を通して引き上げます。 上部に取り付けておいた縄を周囲から引き合いながら垂直に立て、その縄を杭に固定するのです。 続いてその一本目を使って二本目も引き上げ、一本目に結わえておき、五重目の小屋組が建ち上がったところで引き上げ結合させます。 結合部は事前に継手がつくってあり、結合させたら周囲を添え木で完全に固定するのです。
 丸太はそのまま使うことはしないそうです。特に柱の中に木の芯があると割れやすいので、木材を切り出したら 楔で半分に割って、角材にしてから現場に運ばれるといいます。そして、そこで八角形に削られるのです。 四本柱や側柱などは、更に円形に仕上げられるのです。
 楔で丸太を割ると、木の繊維が潰れたり切れたりしないので乾燥が早いのだそうです。 そうした木材の性質に対する経験は、柱の向きにも表れています。木の根元側を下に、南側を外に向けて建てるそうです。 また、右に捻じれた木の部材は、左に捻じれた部材と組み合わせて使用するなど、木の性質を大切に考えていたことが窺えます。 使用する檜は樹齢千年以上といいますから、そうした彼らの「木」に対する思い入れも、自然に対する深い感謝の心が根底にあったのでしょう。

図-6 一重目の柱建て

2) 四天柱と側柱


 心柱の立上げが終わると、足場を組んで、いよいよ一重目に取り掛かります。 内側四隅の四天柱と、その外側に12本の側柱を立てて、頭貫で先端を繋ぎます。更に側柱の上には台輪が取り付けられます。 縦長の断面の頭貫と横長の台輪の組み合わせで、より堅固な構成になっています。
 実際には、上に繋げるべきもう一本の心柱が、四天柱の内側に仮置きされます。

3) 力肘木ちからひじき通肘木とおしひじき


 頭貫や台輪の上に雲形組物を介して力肘木と、それに直交するように一段目の通肘木が取り付けられます。 力肘木は小屋組を支える水平材(横架材)で、反対側の側柱まで繋げていることから「繋肘木」とも呼ばれます。

図-7 一重目の横架材が組み上げ

 部材の結合部は、組物を介して、できるだけ荷重を分散させるように組まれていきます。 それは、単純な斗(ます)だけでしたり、水平材が交差するときなどでは斗と肘木を様々に組み合わせた「組物」を介します。

4) 小屋組み


図-8 雲型組物と組物

 下部斜め材の尾垂木を載せるために3列の横材を力肘木の上に組みます。 外側の側柱上方に斗を挟んで2本の通肘木を、次に束を立てて通肘木を、最後に四天柱上方に四天枠を取り付けて尾垂木を載せます。 最も内側の四天枠は井桁に組みます。尾垂木は四天枠の手前までですが、四隅は四天枠の奥まで延ばされています。

図-9 一重目の小屋組み

5) 一重目の骨組み完成


 上部斜め材の垂木を打ち付けるために、再度、三列の横材が尾垂木の上に組まれます。 最も外側は、力肘木の先端と尾垂木の先端の間に、斗と雲肘木の組物を介して出桁を載せます。 次は側柱上方で、通肘木、斗の上に側桁を載せます。最後は、最奥の通肘木上方に斗を挟んで入側桁を載せます。 垂木はこの3本までですが、四隅の隅木は、四天枠の上に束を介して、再び井桁に組んだ2段目の四天枠まで延びています。 垂木とその先端を整える茅負は釘で打ち付けます。最後に屋根板を打ち付けて一重目が完成です。

図-10 (垂木、屋根板を打ち付けて)一重目の骨組み完成

その当時使われていた釘というのは、日本刀をつくる時のようにしっかり打ち込んでつくられたものです。 だから、表層は錆びても芯まで錆びることはありません。 然も木に馴染み易いという優れものだったといいますから驚きです。 この釘を打ち込む道具は金槌ではなく、木槌を使用していたといいます。 木槌だけでは打ち込めないので、鉄でできた厚みのあるヘラのような「ウチアテ」という道具を釘の頭にあてて使用したといいます。

図-11 二重目までの立上げ途中の図

6) 相輪と屋根瓦


図-12 心柱の結合

 一重目が完成すると、ほぼ同じように二重目、三重目へと組み上げていきます。 五重目が完成すると、五重目の小屋組の中央に露盤という、心柱と屋根とを結合させる相輪の土台を仮置きします。 そして、相輪を取り付けるための足場を組むのです。 足場が組まれると心柱の上側のもう一本を露盤(図-1)の穴に通しながら引き上げ、2本を継手結合させます。 その結合部には40センチ程の大釘を打ち込み、その四方を添え板で完全に固定します。 次に露盤を固定してから、相輪のパーツを下から順に先端から通していきます。 相輪が完成したら、足場を外し、各重の側面と屋根瓦を仕上げていきます。 瓦は、置きだめの時も葺く時も、四方とのバランスに注意しながら進められます。 こうして、今度は上の重から順に下へ作業していきます。

7) 裳階もこし


図-13 裳階

図-14 扇垂木(上)と平行垂木(下)

 法隆寺では先に建てられた金堂において、特に長く突き出している初重の四隅の軒が次第に下がってきたために、四隅の尾垂木を支える 柱を立てました。そのままですと見た目がよろしくないということで、自然な見栄えにするために、その柱を囲った建屋が裳階の始まりなのです。 そして、五重塔でも計画を変更して裳階がつけられたのでした。 天井はありませんが板葺きの庇屋根に、戸口以外を連子窓で装飾して全体の外観を整えています。 案外、意匠的な理由もあったのかもしれません。
 そもそもは、屋根が下がった原因は垂木の配列にありました。 法隆寺の垂木は平行に並べられていましたので、四隅では垂木が短くなって、奥の桁に届かず、十分に荷重を支えきれなかったのです。 元々、中国から伝来した当初は、端にいく程、根元での間隔を狭めて扇状に配置して、全ての垂木が奥の入側桁まで届くようにしていました。 ところが、当時の日本では切妻屋根(屋根面が台形ではなく長方形)が最高の屋根形式とされていましたので、平行垂木が当たり前だったのです。 そのため扇垂木は使われなくなってしまい、再び見られるようになったのは鎌倉時代以降でした。
 この頃、屋根を支えるために、もう一つ「桔木(はねぎ)」という太い斜め材が生まれています。 勿論、こうした変化は小屋組だけに留まりません。
 そこで、次の項では、そうした構造の変化について、現存する五重塔を比較しながら見ていきます。

V.現存する五重塔(江戸時代以前の22塔)

時代と共に変化していった塔の比較表です。

名称所在地建立年総高(m)屋根逓減率構法力肘木桔木心柱TUV
法隆寺奈良680年頃32.45本瓦葺0.5積重ね×*掘立
室生寺奈良800年頃16.18檜皮葺0.59積重ね三層×礎石
醍醐寺京都952年37.44本瓦葺0.61積重ね三層×礎石
海住山寺京都1214年17.70本瓦葺(0.74)積重ね三層○*桁上
明王院広島1348年29.14本瓦葺0.71積重ね四層桁上
出羽神社山形1377年29.20こけら葺き(0.72)積重ね四層桁上
厳島神社広島1407年28.38檜皮葺(0.55)積重ね桁上
興福寺奈良1426年50.10本瓦葺(0.69)積重ね三層桁上
法観寺京都1440年36.40本瓦葺(0.73)礎石
瑠璃光寺山口1442年31.20檜皮葺0.68礎石
池上本門寺東京1607年29.47本瓦葺*0.68長柱◇三層桁上
妙成寺石川1618年34.18とち葺0.625長柱◇三層礎石
法華経寺千葉1622年30.80瓦棒銅板葺0.64長柱‖三層懸垂
仁和寺京都1637年32.70本瓦葺0.69長柱◇三層礎石
寛永寺東京1639年32.30本瓦葺*0.65長柱三層礎石
東寺京都1644年54.84本瓦葺(0.75)長柱‖四層礎石
最勝院青森1666年31.20銅板葺(0.51)×桁上*
大石寺静岡1749年33.40銅板葺(0.53)三層桁上
興正寺名古屋1808年30.00本瓦葺(0.82)桁上
日光東照宮日光1818年31.80銅瓦葺(0.63)×懸垂
妙宣寺新潟1825年24.11桟瓦葺(0.62)-*◎
備中国分寺岡山1837年36.55本瓦葺0.70×礎石

比較表の項目の説明

【建立年】
最初に建立された年ではなく、現存している塔の再建を含めた建立された年。
【総高】
基壇上から相輪を含めた先端までの高さ。
【屋根】
*池上本門寺は、本瓦葺は一重と二重のみで、三重と四重は銅板葺、五重は瓦棒銅板葺。
*寛永寺は最上重のみ銅板瓦葺で他は本瓦葺。
【逓減率(ていげんりつ)】
下から上にいく程細くなる割合。数値は最上重の幅を最下重の幅で割った値。 ( )内は不鮮明な図面や写真などから得ているので参考値。 ただ、比較しているのは屋根ではなく胴部(軸組)の幅なので、屋根の迫り出しの具合で見た目の印象と数値が合わないかもしれません。

図-15 桔木(興福寺五重塔断面図)

図-16 櫓工法(備中国分寺五重塔断面図)

【構法】
積重ね構法は、法隆寺で見たように、柱が下の層(重)の小屋組の上に立てられています。 それに対して、長柱構法は、柱が下の層の力肘木の上に立てられるので、それだけ長くなります。 柱が下の小屋組の中を通って立ち上げることで上下の層の連結が強まることになります。 その柱を支持する力肘木に代わって太い梁(張り出し梁)が使用され、より連結を強固にしたのが櫓構法(図-16)なのです。
(表中の長柱で◇は四天柱のみ長く、‖はその長い四天柱が上の柱位置に合わすため内側に傾けています(左義長柱)。 印がない場合は側柱を含めて全てが長い場合です。)
【力肘木】
小屋組を支えるために井桁に組んだ力肘木を何層にも重ねて支持力を強化しました。
【桔木(図-15)】
桔木は、長く迫り出した屋根を強く支えるために生み出された太い斜め材です。外からは見えません。 これまで屋根を支えていた垂木は不要になりましたが、外観を維持するため装飾用で残されています。 但し、屋根の反りに合わせる必要があるため、桔木の取り付けには高度な匠の技術が要求されました。
*印は一重目の屋根を支える「裳階」がある場合です。
【心柱】
心柱の立て方の種類は、時代順に以下の方式に分けられています。
  • 掘立式:地下深くに埋めた礎石の上に心柱を立てるので、柱の一部が埋まることになります。
  • 礎石式:地表に埋めた礎石の上に心柱を立てるので、柱は埋まっていません。
  • 桁上式:途中の階から心柱を立てます。
  • 懸垂式:塔から心柱を鎖でつないて宙吊りにします。
心柱に比べると塔身に使われる部材は小さく、乾燥による収縮が大きくなります。 そのために最上重の屋根を突き上げるような歪が発生し、雨漏りなどを引き起こすようになりました。 それらの補修がし易いように、あるいは発生しない工夫として立て方が変化してきたのです。 また、地中に埋まった部分は腐食し易い点などから早い時期に礎石式に変わっていきました。 実際、法隆寺では地中部の腐食によって礎石の支持がない状態であることも判明しています。
*印は一本物の木材が使用されている場合です。
◎印は心柱が四天柱に緊結されている場合です。
【T】【U】【V】
それぞれ異なる専門チームによる複数の塔(○印)において 常時微動測定、強制振動試験、人力加振試験などが行われました。
様々な構造の塔で調査されたにも関わらず、いずれも同じような傾向の結果が出されたようで、 特定の構造に限って、特異な結果が出たということはなかったようです。

W.五重塔と災害

1) 五重塔と地震


図-17 伊賀上野地震の震度分布(1854年)
(出典:宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧 416‐2001』)

 世界最古の木造建築である法隆寺五重塔が再建されてから凡そ1300年以上が経過しています。 この間に起きたM7クラスの地震は凡そ170回以上*1)と考えられますが、倒壊した事例はありません。
 こうした大地震に遭遇しながら倒壊を免れた具体的な事例としては、1596年の「慶長伏見地震」があります。 これは有馬−高槻断層帯によると推定されている直下型の地震で 加藤清正が秀吉を助け出した逸話「地震加藤」でも知られています。 完成間もない二条城の石垣が崩れ、天守が崩壊し、城内で500人程圧死したといわれています。 この城から程近い醍醐寺*2)も被害に遭いましたが、五重塔は倒壊を免れています。 そして、ほぼ壊滅的な被害を受けた東寺*3)でも五重塔だけは倒壊しませんでした。
 資料からではなく実例として、先の阪神大震災があります。 これは三重塔ばかりですが、当該地区の15基すべてが倒壊の被害を免れています。
*1)地震の発生回数
この発生回数の内、明治以降が凡そ半分近く占め、江戸時代より前は2割程しか数えられていません。 これは、時代を遡るにつれて信頼性の高い古文書などの資料が少ないためで、近代的地震観測年(1885)以降の発生回数から 推測すれば、知られている回数の5倍以上ともいわれています。
*3)醍醐寺
京都伏見にあって、200万坪の広大な境内をもつ真言宗の寺院です。震災後、秀吉が催した「醍醐の花見」でも知られています。 9世紀に創建された五重塔は、京都では最も古い仏塔で、総高38.2mのうち相輪が12.8mと3分の1以上を占めています。
*4)東寺
西寺(戦国時代に焼失以降廃寺)と並んで平安京を守る寺として8世紀末に建立されたとされています。
現在の五重塔は、震災後に四度目の火災に遭い、1644年に再建されたものです。総高54.8mで最も高い仏塔としても知られています。

写真-3 倒壊直後の四天王寺
(出典:『四天王寺図録伽藍編』9/21空撮)

写真-4 倒壊前の文化再興四天王寺
(出典:『日本写真帖』ともゑ商会/1912)


2) 五重塔と台風


 台風による風災害では、残念ながら倒壊した事例が一例だけあります。 昭和 9年(1934)の室戸台風による摂津四天王寺五重塔の全壊です。 この塔は文化 9年(1812)に再建*1)されたもので、総高 47.8m、本瓦葺、心柱は掘立式と推測されています。 この倒壊については以下のような原因があげられました。
  1. 気象学的な小規模な擾乱が発生した可能性
    「被害箇所が一直線上に点在していることから、この方向に局部旋風が巻き起こっていたと考えられる。」(朝日新聞報道)
  2. 構造部材に材料的な欠陥があった可能性
    「北側の側柱や組物の一部が腐食しており、強風に押されて、塔全体がしばしの間北に傾斜した後、 北に向かってドサッと倒れたもので、旋風に巻き込まれたものではない。」(京都大委嘱の調査チーム)
  3. 渦による空気力が作用し風直角方向に倒壊した可能性
    「高い建物ほど渦や循環運動が発生し易い。 当時は、西風に対して直交方向に力が働いて、南北に揺れ北側に倒れた。」(日本建築学会報告/東京大、長岡物理学教授)
A の局部旋風は、いわゆる竜巻あるいはダウンバーストのことを指します。 実際、台風は積乱雲の集合体でもあり、その進路上で竜巻やダウンバーストが発生し易いことは、今日、よく知られていることです。 また、B については、倒壊当初から様々な憶測*2)が流れ、人災ではないかともいわれたりしました。 C は、最近の調査で倒壊時の風向きが南から南西の間で、風速 32〜34m/sであることから可能性は低いとされます。 ただし、風直角方向に働く力については、ビルの高層化に伴い、近年、特に重要視されている要素の一つでもあります。
*1)文化再興
創建は593年、聖徳太子によって建立されたとされています。雷火や戦火での焼失と再興を繰り返し、文化再興は6代目です。 現在の鉄筋コンクリート造は8代目。
*2)構造に関する憶測
  • 一般見学者が上層に上がりやすくするために「桔木」の一部を取り除いた。
  • 初層の柱が白アリと腐食でボロボロになっていた。 あるいは、既に内部が腐食しているような劣悪な木材を柱に使用していた。
  • 屋根が本瓦葺きではなく、銅板葺きで軽量であった。

図-18 台風通過後の最勝院五重塔の傾き
四隅の側柱の変形量より作図(変形は誇張して表示)
左図:南北の変形のみを表示(緑面は西面)
右図:東西の変形のみを表示(緑面は南面)

(変形量は末尾参考文献6より抽出)
 次は、倒壊ではありませんが、平成 3年(1991)の台風 19号により塔が大きく傾いたという陸奥最勝院の事例について触れてみたいと思います。
 当時の風向は南南西から南西で10分間平均風速で20m/s以上、最大瞬間風速で35m/s以上の強風が吹いていたものと推測されています。 目撃談によれば、東西方向にも揺れましたが、塔全体が大きく南北方向に揺れたようです。 また、通過直後は北に大きく傾き、危険を感じるほどであったのですが、翌日には、目を疑うほどに傾きが少なくなっていたというのです。 木造の木組が故の復元性でしょうか。また、南北方向の傾きで二重目と三重目のくびれも復元時に発生したのかもしれません。
 その後、解体修理が行われ、傾きの原因が心柱の曲がりにあるとされました。 この事と心柱が一本物の杉材を使用していたことと関係があると思われます。 木が育つ時、南を向いていた面と北を向いていた面とでは材質が異なります。 だから、一本物であるが故に、その向きによる材質の偏りが生まれる可能性もあるのです。 そもそも一本物を使用しない理由は、先の法隆寺のところで述べましたが、強度的な理由ではありませんでした。 しかし、結果的に木材を繋ぐことで、心柱が受ける衝撃を継手が和らげていたのではないでしょうか。 この木を組む工法こそ伝統工法の神髄であり、これこそが五重塔の耐震性を支えるものではないでしょうか。

X.五重塔はなぜ倒れないか

1)上田篤*1)編『五重塔はなぜ倒れないか』


写真-5 上田篤編『五重塔はなぜ倒れないか』

 この本は、上田氏が20年ほど前に雑誌に発表した一文をきっかけに出版された本*2)です。 表紙のカバーには、次のように書かれています。
 五重塔は、昔から地震で倒れない、といわれつづけてきた。しかし、これまで、その理由について明快に説明されることはなかった。 今回、建築家、建築史家、建築構造家たちが論じあい、ひとつの結論が浮かびあがった。 それは「五つの帽子を積みあげたような五重塔は、地震のときスネーク・ダンスをするが、真中を通っている心柱がその乱れを抑えて、 しだいに振動を弱めていく」というものだ。
帽子というのは、上重の柱とそれを支える土台*3)が小屋組の上にすっぽり被さる様を氏がイメージしたものです。
 明治以降、西洋から伝えられた建築構造力学は、鉄骨やコンクリートなどの工業材料が中心でした。 木材などの自然材料は均質性が低いため力学的解析も難しく、可燃性であることからも建築材料としては軽視される傾向にありました。 そのため、当時もまだ木造の伝統的な建築物に対する研究は進んでいませんでした。 そうした状況で上田氏は同書の中で、次のように述べています。
…建築構造の専門家に五重塔の不倒理由を聞いても、納得のいく答えがなかなか得られないのである。 せいぜい、木造の組物の接合部がゆるやかなために、地震のエネルギーをよく吸収して、建物が破壊にいたるまでの変形を おこさしめないのではないか、というぐらいである。 それでは、地震がおきたときに、しばしば低い建物の本堂が潰れて、高い建物の塔が倒れないのは何故か、という疑問に答えられない。
 こうした氏の挑戦は、研究者のみならず広く世間に、五重塔への関心を高めていったといえます。 そして、「キャップ」、「スネークダンス」、「ヤジロベー」というようなユニークなキーワードは、いろいろな場面で目にするようになりました。

図-19 2支点ヤジロベー

そのヤジロベーからは、重い屋根がゆらゆら揺れる(ロッキング運動)様がイメージできます。 重心が高いことへの違和感も支点を二カ所と考えれば、ある範囲までの揺れは安定するのです。 四天柱をその二カ所の支点(支点柱)と考え、その外側の側柱をストッパーとすれば、 見事に、安定したやじろべー的揺れが説明できます。
 また、一つの振動モデルとして、柱の長い一重目は横方向に歪み(並進運動)、二重目以降は、柱が短いため横への力より 回転しようとする力(回転運動)の方が勝って、傾きの反対側が浮き上がりやすいと考えられるといいます。 このことは、自重が軽くなっていく上重において顕著となります。
これを防いでいるのが心柱ではないかといわれています。いわゆる石田修三氏の「閂」説です。(これについては後述)
 しかし、ここまでの話は法隆寺などの初期の積重ね構法においてはイメージしやすいですが、 「長柱」や強力な「張り出し梁」で上下の柱が組まれる櫓構法では様子が違ってきます。 しかも、屋根も重い本瓦とは限りません。
*1)上田篤(1930- )
建築家、都市計画家。工学博士。大阪府生まれ。京都大学教授、大阪大学教授を経て、京都精華大学教授。2001年、同大学名誉教授。
建築設計、地域計画に携わるが、建築批評に始まり、都市計画論、都市論、文化論を広く展開する総合的な批評家として知られる。
[日本大百科全書]
*2)その「あとがき」の中で、次のように述べられています。
…この一文を、関係する建築史家、建築構造学者の皆さんに見てもらい、批評、反論、あるいは専門の見地からの詳論を乞うた。 こうしてできあがったのが本書である。したがって、本書は、統一した目標も、共通した結論ももたない。 いわば紙上シンポジウムのようなものである。…
その一文は、そのまま同書「序 謎の建築・五重塔」に収められています。
*3)柱の土台
四天柱を支えるのは「四天枠」、側柱を支えるのは「柱盤」と呼びます。(図-11
*3)石田修三
建築家、工学博士(構造工学)。京都工芸繊維大学名誉教授

2)だから倒れない


 明治以降に再建された木造五重塔も、よく知られたものだけでも20基ほどあります。 それらも含めて共通していえることは、礎石式の柱*1)を含め、継手や仕口などの木組による伝統工法で建てられているということです。 そして、これこそが五重塔が倒れない理由なのです。 それは既に云われているように、木組の隙間(ガタ)*2)や木材のくい込みなどである程度の歪みを許容する「しなやかな構造」にあるためです。 どのように揺れるかは、その構造によって異なります。 今、こうした既存の塔に測定器などを取り付けモニタリングが続けられ、振動に対する研究がなされています。*3) そして、その目的の多くは、設計時に必要な最大振れ幅等の実証にあります。

写真-6 関東大震災で倒壊した円覚寺舎利殿(出典:文化庁)

 では、何故、低層の伽藍などが倒壊し、五重塔だけが免れ得たのでしょうか。 それは、五重塔という細くて高い建造物の特徴である次の二点が考えられるのです。
1) 固有周期が長いことです。
塔のように高い建造物は固有周期が 1.0*4) 秒以上であるのに対して、 低層では0.3 秒前後と短く、地震波に同調(共振)して強い力を受けやすいのです。
2) 内部が狭いことです。
金堂のように広い居室はなく、塔の容積の凡そ半分近く*5)が構造材で占められ、狭い空間しかないことです。 まるで塔全体が木組みでできた、しなやかな棒のようだからです。
*1)柱に掛かる荷重
法華経寺五重塔(総高30.8m)の場合、全重量は1424kN(塔の重さで考えると凡そ150t)と算定されています(参考文献-5)。
柱は固定として解析されていて、礎石上を動いたという痕跡を調査報告で目にしたことはありません。
*2)ガタ
この隙間の量には、かなりバラツキがあったようです。棟梁が複数いると尚更のようです。 最近では、一定の隙間に「ダンパー」と呼ばれる緩衝材を入れて、一定の許容度を保証する方法が取り入れられています。
*3)モニタリング
【摂津願昭寺】(参考文献-3)
平成に建立(1997-2011)。設計時の理論値と建立後の実測値との検証が行われています。 ほぼ醍醐寺五重塔に近い構造。ただ、基壇下にパイルを打って地盤を強化し、柱の根元側にも貫が通されています。
【法華経寺】(参考文献-5)
*4)固有周期
建物の固有周期とは、受けた振動が上部まで伝わって戻ってくるまでの時間をいいます。 異なる周期の振動を与えたとき、建物の揺れが最も大きくなった(共振)時の周期と同じです。 こうした振動特性を最も早く観測したのは、地震学者の大森房吉(1868-1923)で、
  法隆寺(32.45m)1.25秒、 東寺(54.84)1.81秒
と報告されています。その後
  厳島神社(28.38m)1.15秒、 法華経寺(30.8m)1.23秒、 妙成寺(34.18m)1.32秒
などを始め(参考文献-7)、多くの既存五重塔で観測されています。( )内は五重塔の総高で、固有周期との比例関係を表す近似式が種々の研究機関から発表されています。
*5)五重塔の容積
法華経寺を構成している構造材の全体積は凡そ253m3です。(参考文献-5) 図面上から算出した塔の全容積は凡そ550m3でした。木材が塔全体に占める割合は46%ほどになります。 塔以外では、内部に空間をつくることを目的としている建造物なのです。

3)心柱の謎


図-20 質量付加機構の概要図

図-21 東京スカイツリー心柱解説図
(出典:2図共に参考ウエブ-5/レイアウト改変)

 前述の上田氏は、古代から続く日本人の「柱信仰」から、次のようなユニークな発想を述べています。
…五重塔は、その日本人の信仰対象ともいうべき心柱の覆い、 つまり奥州平泉の中尊寺の金色堂を覆っているような一種の「鞘堂(さやどう)」ではなかったか。…
 さて、先にも述べたように、塔が大きく揺れないように心柱が関わるというのが閂説でした。 塔と心柱は異なった揺れ方をします。 塔が大きく揺れようとしたとき、内部の横架材(四天枠)や隅木の根元などに心柱が衝突して、閂のように揺れを抑制してくれるというものです。 石田氏は、自ら考案した模型での実験で、地上式の心柱に最も閂効果がみられたと述べられています。 こうして、心柱が幾多の地震から塔を救ってきたのでしょうか。 現存する塔の心柱に、そうした衝突の痕跡が見られたという報告は、まだ目にしていませんが、 見つかれば、実験より説得力があるように思います。
 現代の高層ビルには「質量付加機構」という装置が取り付けられています。 この装置は、傾きと反対方向に動く「重り」が中に入っていて、ビルの振動と異なる動きをすることで制振するというものです。 東京スカイツリーでは、この装置が付けられないので*)、そこで考えだされたのが中央の円筒部(非常階段塔)なのです。
この円筒部は直径8m、地下から高さ375mまであり、厚さは、高さ100mまでが40cm、高さ100〜375mまでが60cmの鉄筋コンクリート造の「柱」で、 周囲の鉄骨造部分とは構造的に切り離されています。 周囲の架構との間は、ぐるりと約1m程度の隙間になっていて、高さ125m以下は固定域として鋼材により塔体とつないでおり、 高さ125〜375m までは可動域として隙間にオイルダンパーを設けています。 オイルダンパーは、要はクッションのような役割で、揺れたときにこの「おもり」が塔体にぶつからないように制御するものです。 副次的には、このダンパーによって地震エネルギーを吸収することができます。[参考ウエブ-4]
そして五重塔に因んで「心柱制振」と名付けたそうです。
 この考え方こそが五重塔を倒壊から守っていた理由なのです。 塔の振動と異なる周期で互いに振動を弱めていたのです。 そして、上層の激しい揺れに対しては「閂」のように働いたのかもしれません。 そうした意味から、地上式の心柱の方が地震波を早く受けやすいので直下型地震には有利なのかもしれません。 逆に自由度の高い懸垂型は、大きな揺れに有利といえるかもしれません。
*) 実際には、最上部のゲイン塔(長さ120m)のために、小型の制振装置が取り付けられています。


【参考文献】
  • 西岡常一・宮上茂隆・穂積和夫(イラスト)『日本人はどのように建造物をつくってきたか1、法隆寺・世界最古の木造建築』草思社
  • 上田篤編『五重塔はなぜ倒れないか』新潮選書
  • 佐藤 貢一・池間 典一・中村 敏治・梅津 匡一・森田 仁彦『大規模伝統構法五重塔の地震および強風観測』大成建設技術センター報 第45号
  • 三山剛史『五重塔の心柱が塔身の振動に及ぼす影響の検討』帝塚山大学現代生活学部紀要 第8号
  • 横尾達平『重要文化財五重塔の地震・風応答に関する研究』三重大学/学術機関リポジトリ研究教育成果コレクション
  • 嶋田健司・松井正宏・吉田昭仁・田村幸雄『五重塔の風災害』日本風工学会誌第96号/2003
  • 構造研究グループ・河合直人『五重塔の振動特性に関する研究』平成18年度に終了した研究開発
【参考ウエブサイト】


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