Calture

UpDate/2015/10/25


  1. 各務原台地における
       熱田層上部層
  2. 村国座と子供歌舞伎
  3. 各務原台地の誕生と古墳群 
  4. 中山道鵜沼宿の立体的検証 
  5. 3億年以上前の地層
  6. 中山道と童謡〜
     

各務原台地における熱田層上部層

---Geo-Labo Chubu ニュースレター(No140)より転写(図及びレイアウトの一部を改変)


(1) 見学概要

地盤工学会中部支部では、シニアの方々が定年を迎えられた後も地盤工学会の会員として継続して活動を行えるスキームを 構築することを目指して、平成25年度に中部支部シニアの会員継続WGを立ち上げて活動が行われている。 第2回の行事として、「実務でよく扱っているが,直接見たことがない」と考えられる「熱田上部層(鵜沼面,鳥居松面)の見学会」が 開催され、低位段丘面の掘削工事現場にて,主として濃尾第一礫層,濃尾第二礫層を見学した。 併せて,近傍にある「鵜沼宿」は,中山道69次のうち52番目の宿場町となっており、 江戸時代の往時を偲ばせる街並み(脇本陣,町屋館など)であることから、露頭見学後に鵜沼宿を説明付きで見学したので報告する。 なお当日は石川県や大阪府からも参加者がありました。 おかげさまで,参加者の予定数を確保できたことに深くお礼を申し上げます。
(講師)(開催日)

(2) 露頭見学ポイント

 標高45m程度の低位段丘面を形成する鵜沼面では、建設資材として利用される砂利採取のために継続的に掘削工事が行われている。 このために,地表から約10〜20mの深度まで掘削されていて、地表部を形成する黒ぼく,濃尾層相当層と考えられる砂質土層、 およびその下位の濃尾第一礫層,濃尾第二礫層などを観察することができた。
 一方、低位段丘面の西側に分布する標高60m程度の各務原台地では,層厚12m程度の砂質土層が堆積しており、 熱田海進(下末吉海進)期に堆積したと考えられる熱田層上部層1)を観察することができた。
 また,各務原台地の東端部では,木曽川泥流堆積物(約5万年前)が分布しており,これらの露頭も見学できた。  以上のように,多くの見学ポイント(下図参照)で、図-3に示すようなモデル断面を体験することができて、 貴重な見学ができたものと考えている。
(見学ポイント)
9:30 集合
1鵜沼宿駅(JAへ案内)
2JA岐阜うぬま(集合)
3掘削現場-1見学
    黒ぼく
    濃尾層?
    濃尾第一礫層
    濃尾第二礫層
4掘削現場-2見学
    黒ぼく
    濃尾層?
    濃尾第一礫層
    濃尾第二礫層
5露頭
    熱田層上部層
    御岳軽石Pm-3を狭在
6露頭
    御岳火山噴出物を含む
    木曽川泥流堆積物
7昼食場所:花の木
G 鵜沼宿探訪
16:00 解散

図-2 見学地の詳細


図-3 当日配布された見学地のモデル断面図2)

(3)地層の分布状況(参照 図-4〜5)

写真-1 見学ポイント-1での観察結果

写真-2 見学ポイント-1での観察結果

1) 黒ボク
 地表を覆う黒褐色土の黒ボクは、全国各地に分布する。一般的に、火山灰のイメージで説明されることがあるが、 火山灰は無機質なので黒色化しないが、腐植成分が多いと黒色化するとされている。 当地域の黒ボクのベースには、火山灰も含まれており、強い酸性(pH≒6)を示すとされている。 なお、この火山灰は風成堆積物なので、御岳山由来ではなく、 縄文時代早期末の広域火山灰やアカホヤ火山灰等が偏西風に乗って飛来したと考えられている1)に追記
2) 砂質土層

写真-3 見学ポイント-1 南側のクサリ礫(直径≒15p)

写真-4 見学ポイント-1 代表的玉石

 濃尾層に相当すると考えられている砂質土層が数mの厚さで分布し、雲母・シルトを含んでいる。 ヴュルム氷期末の温暖期に堆積したと考えられる砂〜シルト層が分布している1)
3) 濃尾第一礫層(G1),濃尾第二礫層(G2)
 法面の礫層の観察によると、地表下 4〜6mの前後に明らかな層理が確認できる(写真-1、2参照)。 上位は灰白色で締りの少し弱い礫層、下位は赤褐色の締りある礫層である。
 下位の礫層は、礫の大きさが均一化されていないほか、上方に鉄分が帯状に集まった箇所が認められ、 全体に礫が鉄分でコーティングされたように赤褐色化している。 また、下位の礫層には、ハンマーでたたくと容易に壊れるクサリ礫(写真-3)も狭在している。 これらの層の境は、不整合をなし、堆積年代に明らかな時間の隔たりを感じさせる。 上層が濃尾第一礫層、下層が濃尾第二礫層に対比されるとしている。 また、低位段丘面下の地層分布では、両者の間に存在すべき各務原層(熱田層上部砂層)の分布が確認されていない 1)に追記
 なお、濃尾第二礫層(G2)は、リス氷期に堆積した砂礫層で固結している。 花崗岩、安山岩、石英斑岩の円礫で構成されるが、砂岩,チャートはほとんど見られず大きさは不揃いとされる。
 礫径は、多くが長径≒30cm,短径≒15cm(写真-4)であり、最大礫径は,長径≒70cm程度の玉石がみられた。

写真-5 見学ポイント-5 の熱田層上部砂層

写真-6 見学ポイント-6 の木曾川泥流堆積物


4) 熱田層上部砂質土層(各務原層)
 約 10 万年前以降、熱田海進(下末吉海進)期に古木曽川が河口付近に浅海性、若しくは三角州性の砂層群を堆積させた。 その後のヴュルム氷期の海面低下により、この砂層群を古木曽川が浸食するが、小丘陵群(南側に位置している伊木山)の存在により、 浸食が阻まれ台地状の地形が取り残された。この地形が各務原台地であるとされている。
 これらのことから、各務原台地の主体部を成すのは、礫を含んだ厚さ 12m の砂層群である。 これらは各務原層と呼ばれ、熱田海進期に堆積した熱田層上部に相当するとされる。
 見学ポイント-5では、オレンジ軽石を何層にも多量に狭在させている(写真-5)。 このオレンジ軽石は、風化が進んでいて、容易に手で押しつぶすことができる。 現地で採取したオレンジ軽石の粒度分布を図-6に示す。 このオレンジ軽石は,文献1) によれば,6.6〜6.8 万年前と測定された御岳第三浮石層(Pm-V)(高木1976,町田・鈴木1971)とされる。
 なお、各務原台地は東から西に標高を低下させる。


図-4 伊勢湾周辺地域における氷河性海面変動曲線(上記の文献に加筆)

‖引用元:牧野内猛:知多半島の地形地質とそのおいたち,知多半島が見えてくる本,2,pp.68-71,2002.


5) 木曽川泥流堆積物
 見学ポイント-6では、木曽川泥流堆積物を確認できた。 御岳山(3,067m)の東側旧斜面に厚く堆積していた火山噴出物が大崩落を起こし、木曽川を流れ下ったものであるとされている 3)。その量は10億m3(≒ナゴヤドーム(≒170 万m3)600 個分)ともいわれ、 鵜沼までの距離は200kmにも及ぶとされている4)。 法面には、角張った溶岩が多く見られ、かなり固結している。
 この泥流の堆積年代については、約27,000年前という14C年代が算出されたが、 その後、岐阜県八百津町の木曽川泥流堆積物中の埋没樹木の14C年代測定から49,850±420y.B.P.という数値が得られている 3)
 現在,西村・可児を中心として、この泥流堆積物の分布が調査されていて、近い将来、その分布が明らかにされるものと期待できる。

図-5 濃尾平野および周辺地域の層序とその形成史

‖引用元:牧野内猛:最新名古屋地盤図(追補版),第2章 名古屋地盤の地質構成, 2015.3(予定)

【引用文献,参考文献】
1) 西村勝広,可児幸彦,奥田昌男,中根洋治,早川清:各務原台地下部層の堆積物からみた地盤形成の特徴/ 第26回中部地盤工学シンポジウム,H26.8
2) 西村勝広,可児幸彦:各務原台地における熱田上部層と鵜沼宿の見学会配付資料H27.3
3) 吉川虎雄:木曽川の河岸段丘-御岳山と濃尾平野との地形発達の関連を中心として/辻村太郎古希記念地理学論文 集,1961
4) 西村勝広・可児幸彦・奥田昌男・中根洋治:各務原市における古墳築造と木曽川泥流堆積物/第21回調査・設計・施工技術報告会論文集,2012

写真-7 木曽川泥流堆積物の法面を背景にした当日の参加者

鵜沼宿の探訪

 露頭見学終了後は、近傍の鵜沼宿を探訪した。 当日は、鵜沼宿のボランティアガイド(片岡氏、坪内氏)による解説付きでしたので、 詳細に鵜沼宿を探訪することができました。 このガイドのお二人と最後までお付合下さいました講師の可児・西村様の二人に深くお礼を申し上げます。ありがとうございました。


参考:熱田層上部砂質土層内の御岳火山灰の物理特性

当日、鵜沼市大伊木町の各務原層群の露頭から、御岳オレンジ軽石(Pm-V?) を採取し、物理試験を実施してみた。 その特徴を下記に列記する。
  • 湿潤状態の軽石を少し摘むと含有されている水分が表面に出る。
  • この軽石は指圧で容易に潰すことが可能。
  • 粒度試験(フルイ)の結果,75μmに留まる粒径がほとんどで,意外に細流分が少ないことが分かった。
  • 湿潤状態に比較すると、乾燥状態の試料はもろく、簡単に組織が壊れることが分かった (なお、物理試験は石原聖子が担当してくれました)。
御岳軽石堆積層の物理特性
土粒子密度
ρ
s= 2.704 (g/cm3)
含水比
ω
n= 120.3 (%)
礫分   = 39.1 (%)
砂分   = 53.9 (%)
シルト分   = 3.5 (%)
粘土分   = 3.5 (%)


(細粒分が7% と少なく,含水比が120% と高いことが分かった)

写真-8 軽石試料採取位置の露頭の状況

写真-9 採取試料の軽石の状況

図-6 オレンジ軽石の粒径加積曲線


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◆村国座と子供歌舞伎

村国座は、壬申の乱の英雄「村国男依」を祭神にまつった村国神社の境内にある。その南側を新境川が流れる。 そこに架けられた参道の橋から朱い欄干越しに村国座を眺めると、白漆喰と無双窓のコントラストが実に美しい。
村国座は明治10年頃に建てられ、昭和49年には国の重要有形民俗文化財の指定を受け、そして平成8年から 3年間、およそ2億円の巨費をかけて基礎を含めた大修理を行って現在に至っている。本格的な回り舞台や幅の広い 花道と奈落や太夫座を備えており、守っていきたい財産の一つ。
時代と共に衰退していった農村歌舞伎ですが、昭和40年代後半になって仕事に忙しい大人に変わって小学生による 子供歌舞伎に切り替えたことで、今でも祭りのメインイベントとして多くの人々に親しまれている。
上演される演目も本格的で多彩に富んでいる。以下は最近上演された演目から。

伽羅めいぼく先代萩/御殿の場

伊達騒動をモチーフにしたお家騒動。 命を狙われる幼い若君の乳母、政岡は、同じ年の我が子が目の前で若君の身代わりで殺されても、敵の前では毅然と振る舞う一方で 我が子への母親としての悲しみを演じる難しい役処を熱演。

【写真:ブログ「旅と祭りのフォトログ」より】

▼弁天娘女男白波めおのしらなみ/稲瀬川勢揃いの場

ご存じ白波5人男
 日本駄右衛門←石川五右衛門/問われて名乗るも おこがましいが・・・
 弁天小僧菊之助←架空の人物/(浜松屋で)知らざあ言って 聞かせやしょう・・・
 忠信利平←源九郎忠信(義経の家来)/・・・がきの頃から手癖が悪く・・・
 赤星十三郎←美少年だった白井権八/・・・消ゆる間近き 星月夜
 南郷力丸←和籐内(わとうない)?/さてどんじりに 控えしは・・・

【写真:ブログ「旅と祭りのフォトログ」より】

▼一ノ谷嫩軍記(いちのたに ふたばぐんき)/熊谷陣屋

時代は有名な義経vs平家の一の谷の合戦。主人公は義経配下の熊谷次郎直実(くまがいじろう なおざね)。 義経は頼朝から平敦盛(天皇の血筋)の首を取るよう命じられるが、密かにこれを助けるため熊谷に敦盛の首と偽って 我が子、小次郎の首を出すように暗に命じ、舞台はその首実検の場面。 敦盛の母、小次郎の母も登場して嘆き悲しみと安堵が交差する中、武将らしく振る舞う熊谷の複雑な心境をぎゅっと凝縮した 歌舞伎の中の歌舞伎、名作中の名作。難しい演目です。


▼絵本太功記(えほんたいこうき)/尼ヶ崎閑居の場
本来は14段ある長い太閤秀吉の話だが、歌舞伎では10段目の「尼ヶ崎閑居の場」のみ。
尼ヶ崎の閑居に住む武智(明智)光秀の母のところへ、光秀の妻が光秀の一子・光慶の許嫁を連れて来ていた。 二人は謀反人を子に持ち夫に持った身の因果を嘆く。(父光秀に母の了解がなければ初陣はダメといわれてやってきたという設定)光慶は許嫁と尽きぬ名残を惜しんで祝言の盃を交わし、討ち死にの覚悟で出陣する。 そこへ旅の僧が、一夜の宿を乞うてくる。その後をつけてきた光秀は、僧を真柴筑前守久吉(秀吉)だと見抜き、竹槍で襖越しにこれを刺すが、 刺したのは秀吉ではなく自身の母であった。母は我が子の不忠不義を嘆き悲しんで死ぬ。 そこへ光慶が深手を負って帰り、味方の戦況の不利を伝えると、父の身を気遣いながら息絶える。
(この場面の前では秀吉等が光秀等との斬り合いで押されて尼ヶ崎へ逃げ潜んでいるという設定)


▼神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)/頓兵衛住家の場
極悪人の渡し守の頓兵衛とその娘お舟の話で平賀源内原作という異色の作品。 時代は南北朝。新田義貞の二男義峰に一目惚れしたお舟。お金のために義峰を殺そうとする父頓兵衛に斬られながらも 惚れた相手の義峰を逃がそうとするお舟の必死さと頓兵衛の悪人ぶりが見どころの演目。

【写真:ブログ「旅と祭りのフォトログ」より】

▼新版歌祭文(しんぱんうたざいもん/野崎村の段 お染、久松の心中もの。何かとすぐに死ぬと言うお染、二人の女性にフラフラ煮え切らない草食系男子の久松。子供らには演じさせたくない演目。
各演目については ブログ「歌舞伎見物のお供」を参考にさせていただきました。 およそ300余りの演目が50音順に載せてあります。興味のある方は下記から是非どうぞ
「歌舞伎見物のお供/50音索引」

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◆各務原台地の誕生と古墳群

【東海湖/東海層】

今から約500〜400万年前、東方(現中央アルプス‐木曽山脈)の隆起に伴い、現在の濃尾平野を中心とした一帯の沈降が進み 巨大な淡水湖ー「東海湖」が出現した。最大時は琵琶湖の6倍程にも達したと云われる。
ここに堆積した地層を東海層群といい、焼き物の土としても有名で多数の産地が点在する。 又、その注ぎ込む川の上流によって土質も異なり、瀬戸や多治見のように主に花崗岩の分布域や常滑のように変成岩の分布域など多様性に富む。

【350万年前の最大時の東海湖のイメージ図/国土地理院基盤地図より改変】

この東海湖も350万年前頃をピークに縮小しながら北に移動し、80万年前頃に消滅したされ この時期、西側では鈴鹿山脈や養老山脈、東では三河山地の隆起が本格化し、今日見られるような姿になったとされており、 同時にその鈴鹿、養老山脈の東側(養老‐伊勢湾断層)の沈降も進み(濃尾傾動運動)、東海層までの深さが最大で1500m以上になっている。 しかも、この動きは現在もわずかだが続いており、年間平均0.5mm西方へ沈んでいるという。 木曽三川の下流域での流れが西側へずれ込んでいくのはそのためといわれている。
(年に1〜2回発生している、愛知県西部や岐阜県南部で深さ10〜20kmの浅い地点を震源とする震度1〜3程度の地震で沈下が進行している)

【熱田海進/各務原層】

13万年前にリス氷期が終わり間氷期に入ると、海面が徐々に上昇し海岸線が内陸深く侵入し、ピーク時には濃尾平野北辺にまで及んだ。 これが所謂「熱田海進」と呼ばれるもので、当時の木曽川が運んで河口付近に堆積した地層を各務原層といい、現在の各務原台地を 構成している。

【125000年前の木曽川と海岸線のイメージ図/国土地理院基盤地図より改変】

【河岸段丘】

さらに7万年前に始まったヴェルム氷期(1万年前まで続く)で海岸線が徐々に後退する海退が進むと、地表に姿を現した各務原台地を 激しく流路を変えながら侵食していった。 こうして河川によって堆積や侵食によってできた平地を河岸段丘といい、崖(段差)を段丘崖(だんきゅうがい)という。 この台地の侵食期中(約5万年前)に御嶽山の火山灰による泥流が段丘崖を乗り越えて堆積した。 今も段丘崖でその露出した地層を観察することができる。泥流の堆積層といっても凝灰岩化して締りが極めて強く硬い地層であり、 この地に建設された古墳の発掘調査で、その硬さが故の設計変更の痕跡がみられたという。

【2万年前頃の各務原台地を侵食する木曽川の流路イメージ図/国土地理院基盤地図より改変】

こうしたできた各務原台地は(段丘崖上の高位段丘)西に向かって低くなっており、これも濃尾傾動運動の影響と云われている。

【坊の塚古墳】

4〜5世紀頃につくられたとされる前方後円墳の坊の塚古墳や衣装塚古墳は、各務原台地の東端の段丘崖の上沿いにある。 その崖下が鵜沼低位段丘面で、当時は東山道が通り、その各務駅があり、木曽川渡しで通行の要所として重要な地域でもあった。 古墳はそうした地域を見下ろすように、当時の権力者がその権威を誇るようにつくられている。 地図を眺めると、反対側の金縄塚古墳も含めて、古墳群がぐるっと取り囲むように並んでいるのが分かる。

【段丘崖と古墳位置図】

前方後円墳は、後円部が埋葬のための墳丘であり、前方部は死者を祀る祭壇、あるいは葬列のための道ではないかと言われている。 いずれの解釈でも円墳に向かうのだから後方前円墳と呼ぶべきだと云う人もいる。ただ、後の時代には前方部にも埋葬されるようになった。 元々この呼び名は江戸時代の国学者の書物が始まりらしい。

【坊の塚古墳/地図GoogleマップEarthに加筆】

坊の塚古墳は御嶽山を向いているようにみえる。 その主軸は北から東へおよそ46度の傾きで、この位置から御嶽山へは41度なので5度の誤差がある。 単に段丘崖線に合わせただけだろうか。
八木山の真南に衣装塚古墳があり、その真南に犬山の青塚古墳がある。この青塚古墳の主軸上に御嶽山がある。 これも単なる偶然か、それとも鬼門?
坊の塚古墳の発掘調査についての詳しい内容ついては『地盤工学会中部支部』のダウンロードページ(21回)  「各務原市鵜沼における木曽川泥流堆積物層と古墳築造について」

【地名余談/片町、浜井場】

鵜沼宿の町並みの西端は、段丘崖が街道に迫っていて北側にしか家が建っていないことから「片町」といわれた。 今も地元では片町東、片町西などの地名として使われている。

【中山道分間延絵図/東京国立博物館所蔵】

木曽川河岸でわずかに砂地になっているところがあったりするが、「段丘崖と古墳位置図」で浜井場と記した辺りも かってはそんな状態の時期があったのかもしれない。
【参考資料】

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◆中山道鵜沼宿の立体的検証
〜防衛機能と野道について

1.はじめに

近代を迎えると、鉄道網の整備が進み五街道の宿場町は衰退した。さらに自動車社会が訪れると、五街道は国道となり拡幅され、 都市部では過去の面影を大きく失った。幸いなことに、19 世紀に制作された『中山道分間延絵図』という精度の高い絵図が存在することにより、 当時の街道の様子を知ることができる。この絵図には街道沿線の全てが網羅され、建物のみならず地形や道路設備にいたるまでが描かれている。 しかし、絵図は2次元の平面図である。そこで、絵図に標高値を与えて断面図を起こし、3次元的に観察することで、 中山道という道路と地盤・自然地形との関わり方、施工方法などを考察する。また、実際に現地を踏査し、当時の道をイメージしながら道路の 機能を考察する。

2.鵜沼宿東見附付近の屈折箇所

『中山道分間延絵図』は、寛政12年(1800)に幕府の命令によって制作された『五海道其外分間見取延絵図』全91巻の一部で、10巻からなる。 原本の縮尺は約1800分の1で、街道を管理する道中奉行の監修により沿線の様子を詳しく描く。 中山道鵜沼宿についても、当然のことながら収録されている。 宿場の両端には、その出入り口となる見附と呼ばれる場所があった。 鵜沼宿の場合、『分間延絵図』では見附の位置が判然としないが、安政7年(1860)に制作された『鵜沼宿家並図』には東西2箇所の見附が表記 されている。 ここで、東側の見附に注目すると、その位置は赤坂神社南側の中山道が屈折する箇所であったことが確認できる。 この箇所は絵図に見るよりも実際は強く鋭角に曲がっている。『分間延絵図』は、全体が巻本や折本の体裁であるため、 中山道の進路をなるべく水平に描いていく必要があり、縦方向の急激な変化は圧縮してある。 その断りとして記されているのが図中に示された複数の方位印で、各印の南北が一定して いないことから、路線の形状は実測通りではなく所々に調整が加えられていることが理解される。

野道の取材写真を見る↓(絵図に加筆した野道番号)
16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1

【絵図と断面図】


3.屈折箇所の立体的検証

さて、もう一度、東見附付近における中山道の屈折箇所に注目してみる。 鵜沼宿界隈の中山道は、河岸段丘として発達した崖の上に沿って路線がとられている。 つまり、中山道は高位部を走っているため、赤坂神社の付近ではスムーズにカーブして北への登坂道と接続することができたはずである。 それにも関わらず、鋭角に折り曲げたのには何らかの意図が感じられる。その理由は、この箇所の高低差に注目すると明らかに なる。中山道を西から進んだ場合、金山川を越えた辺りから峠へ向かって登坂し始めるが、赤坂神社の前では路線を段丘の下段方向(南側)へ 引いてから鋭角に折り曲げている。 つまり、崖下へ道路を一旦、落とし込んでいることになる。 この屈折箇所は、明らかに人や物の移動に不都合を強いたであろう。過去に指摘がなかったわけではない が、この箇所は主要街道の要所に備えられた、いわゆる「鍵の手」や「枡形」に似た機能をもつ一種の防衛 施設である可能性が高いと、改めて説明することができよう。有事の際には、東見附を閉鎖すると同時に、 高低差で見通しを悪くした地点ならではの、様々な防衛作戦を講じることが出来たのではないかと思われる。 実際に現場に立ち周辺を立体的に観察することで、新しい事実が見えてきた。

4.中山道と自然地形
鵜沼宿付近の中山道は、上述の通り河岸段丘の崖上に沿い路線をとっているので、基本的には高台を東西方向に安定して走っている。 しかし、北方の山々からの湧水は複数の小川となって段丘崖を垂直に切り低い南方へ流れ出ている。 その流路には自ずと谷が形成されるので、中山道を進行するには複数の谷をまたぐ格好にならざるを得ない。
上の断面図からは、鵜沼宿周辺の中山道の高低差を読み取ることができる。 緑苑環状道路と八木山交差点の部分は、谷底である。金山川などが自然に築いた緩いスロープを利用して、現在の道路が機能している。 その点では、大安寺川は少し高い所を流れていることが特徴的と言えよう。 鵜沼宿の東方は、うとう坂へ向かうので次第に標高が上がっていく。一方、西方へも登坂する。 この西の急な高まりは、5万年前に堆積した木曽川泥流堆積物の影響によるものであると考えられる。

5.野道の現況
絵図をよく見ると、中山道沿いには多くの道が接続していることが分かる。それらは、野道と表記されている。 野道は、その名称からしても、細くて街道のようには機能しない印象が強い。 『中山道分間延絵図』に描かれた16本の野道を、絵図に示してみた。また、実際に現況の道路を歩き、それぞれの野道の確認調査を行った。

≪野道の取材写真≫


【野道 1】
中山道の鋭角屈折箇所から南へ派生する。写真では、右へ曲がるのが中山道、直進が 野道となる。現在は野道の幅が広くなっている。この屈折部は、上述の通り周りより明らかに低い。

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【野道 2】
ここは、工事中の部分である。絵図では蛇行しているが、現在は直線である。重機の向う側は、段丘の下へ向かう坂道となる。

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【野道 3】
緑苑団地の環状道路の一部となっていて、自動車が頻繁に行き来する。金山川が浸食した谷地形が利用されている。

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【野道 4】
野道 3 の反対側に続く金山川沿いの道で、こちらも車道になっている。川には蓋がされ、暗渠になっており当時とは随分と様子が異なる。

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【野道 5】
坂祝バイパスの建設により大きく様変わりし、現状で確認できない。

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【野道 6】
大安寺川の左岸道路である。川に沿って道路も湾曲している。中山道を越えると、川の右岸を通ったことが絵図から分かる。

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【野道 7】
絵図によると右岸であるが、現在は大安寺川の両岸に道路がある。

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【野道 8】
二ノ宮神社の西方から境内へ繋がり、神社の参道階段を経由して中山道に接続する。当時は奥の土地が高く、起伏があったようである。

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【野道 9】
武藤酒造と古民家の間の路地のような道である。今でも側溝が設けられていて、水の通り道になっている。

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【野道 10】
道幅に当時の雰囲気が残る。坂を登り、二ノ宮神社の西側へ通じている。

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【野道 11】
鵜沼西町交流館の正面に突き当たる道である。現在の側溝部分には、当時から水が流れていたようである。

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【野道 12】
ここは、おそらく当時の姿のままであろう。一歩入った斜面には、祠が祀られている。 中山道との合流部に段差が生じているのは、車道側を後世に低く削っているからである。

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【野道 13】
翠池(よしいけ)の南から東岸へ通じる道である。絵図では池の南側に見えるが、それは池が鳥瞰風に描かれているからである。

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【野道 14】
野道 13 の向い側の道である。道路を拡幅した時に勾配が強くなり、現在の階段になったと思われる。

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【野道 15】
絵図ではそれほどでもないが、現況では強く蛇行して斜面を降りている。

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【野道 16】
ここは、平坦な道である。最近の下水管埋設工事の時に、道に沿って谷が埋没していることが分かっている。

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6.結論
今回、中山道鵜沼宿の断面図作成と現況踏査から、『中山道分間延絵図』に描かれた情報を、より引き出すことができた。 平面的な絵図を、立体的な視点を重ねて見ることで、街道と地形との関わり方が鮮明になってくる。 鵜沼宿においても、防衛のための道路設計が講じられていたことが明らかになってきた。 また、『中山道分間延絵図』に記された野道の位置について現況を確認したところ、野道5を除いては全 て残されていることが分かり、その現存率の高さが確認できた。野道には特徴がある。 絵図をよく見ると、野道に沿い水の流れが伴うことが多いと言える。 金山川や大安寺川以外にも複数の小川が中山道を横断していて、野道はその水流によって形成された緩い傾斜を利用して段丘の上から 下へ通じていたようである。 先に見た緑苑環状道路も、元は谷筋の野道だったと思われる。 当時の中山道建設工事では、大きな川には橋を架け、小さな谷川は埋め立て水路を整備して水流を整え、 板で蓋をして暗渠にしている様子が絵図から伺える。 また、一部では道路のセンターに水路を導き、防火水槽のようにして有効利用している。 ここに、野道の存在が、中山道と自然や地形との関わり方を示唆してくれている。 しかるに、野道の大半は、いわゆる赤道として現存していた。後に車道(市道)として整備された道は僅かである。
赤道とは、道路法が適用されず管理者のはっきりしない道路のことである。里道とも呼ばれ、昔から自然発生的に生まれた道で、 村の人々の農作業や所用の行き交いに使われてきた道である。
中山道鵜沼宿付近は、今も土地の筆割があまり変わっていない。同時に、野道も私有地化されることなく、ずっと長い間残ってきた。 おそらく、中山道建設以前から通っていた古い道なのだろう。そういう意味でも、鵜沼宿付近には、古の雰囲気が、まだまだ多く残っていると言える。
*本記事は「地盤工学会中部支部」第22回調査設計施工技術報告会で発表された同名題の小論をレイアウトを変更して転写したものです。

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◆3億年以上前の地層

【木曽川の岩盤露頭/P−T境界】

5月30日に開催される 「第34回全国地名研究者大会」出席のため、 前日より大垣入りされていた 日本地名研究所のメンバーの方々を 鵜沼宝積寺町の岩盤露頭へ案内致しました。
(H27.5.29)
 鵜沼宝積寺町近辺の木曽川には、広く岩盤が露出しています。 これらの岩は、本来、太平洋の深海底に堆積していた地層です。 この地層は、長い年月をかけ海洋プレートに乗って移動し、日本列島に近づいてきました。 そしてプレートが列島に沈み込む時、地層の部分は陸上に押し上げられ褶曲と破断を繰り返しました。 こうして出来た複雑な地形が、金華山など美濃の山々です。岩盤は、美濃帯堆積岩類と呼ばれています。 岩石の種類を見ると、主となるのはチャートで、次いで砂岩、泥岩も認められます。 チャートとは、主成分が二酸化ケイ素で、 この成分を持つ放散虫や海綿動物などの殻や骨が海底で堆積して出来たものです。 これらは、古生代の石炭紀(3億5920年前)から中世代のジュラ紀(1億9960年前)に、 太平洋の深海底に堆積した地層と考えられています。
 さらに注目されるのは、チャート層に挟まったP-T境界が確認できることです。 2億4500年前、古生代ペルム紀と中世代の三畳紀の間に、 何らかの理由で海洋に酸素欠乏状態が発生し、海生生物が大量に絶滅した出来事がありました。 この間に堆積した地層は「P-T境界」と呼ばれ、還元作用によって黒く見えます。 このP-T境界は、地球の歴史を研究するうえで大変注目されています。
 最近、坂祝町内の木曽川においてP-T境界のやや上位に位置する地層中から、 地球上には僅かしか存在しないイリジウム等の元素が一定量検出されました。 これらの元素は、当時、カナダ東部に衝突した天体が地球へもたらしたものと推定され、 地球で大量絶滅が起きた原因を研究するための重要な発見とされています。

【各務原市歴史民俗資料館発行の「各務野ヒストリー」より】)

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◆童謡「ずいずいずっころばし」と中山道
江戸時代、徳川家に献上される京都宇治のお茶を壺に詰め、中山道を通って運ばれる行列を「お茶壺道中」とよばれていました。 大名以上の格式を持ち、子供等が道で遊んだり、騒いだりすることが禁じられていました。 だから、閉めた戸口の奥で、じっと行列が通り過ぎるのを待っている。 童謡「ずいずいずっころばし」は、そんな子供等の様子を唄ったものではないかと言うのです。

詳細は市のホームページ/ 「資料館だより」29号(平成23年版)


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